吉村氏吉
吉村 氏吉(よしむら うじよし、生没年不詳)は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。
生涯[編集]
仮名は又吉郎。諱は安実ともいわれている。美濃国石津郡松之木の出身。
最初は織田信長に仕え、元亀4年(1573年)4月13日夜に美濃国内で発生した一揆を鎮圧し、2日後に信長から賞された。この頃の氏吉は信長の家臣だが、身分的には市橋氏の与力にされていたと見られている。さらに12月9日には、信長から鉄砲を使って鶴、雁を追い立てるように命じられている。
天正3年(1575年)11月に織田信忠が家督を継承すると、信忠付となった。天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長・信忠父子が横死すると、新たに美濃国主となった織田信孝に属したが、12月に信孝が羽柴秀吉、織田信雄らに攻められて降伏すると、信雄に属した。この際に信雄から所領安堵、並びに新たな所領の給与まで保障されている。さらに天正11年(1583年)1月24日に信雄から500貫文の加増を受けている。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは信雄に属し、脇田城の守備を命じられる。その功績から4月6日に信雄から美濃国今尾の地を与える旨を約束されたが、これは空手形と見られている。氏吉の活躍や力量は大きかったのか、氏吉は信雄にかなりの通信をしており、信雄もそれに応えて返書をかなりしているためである。4月11日に氏吉は美濃国高須に出陣し、羽柴方の砦を3つも落としている。同時期に羽柴方の池田輝政によって脇田城が攻められるが、氏吉は急いで城に戻ってこれを防衛した。続いて羽柴方の大軍が脇田城に攻めて来たので、氏吉は信雄に援軍を要請し、信雄は寺西忠左衛門尉を送って氏吉はこれによって6月まで脇田城を守り通した。7月になると秀吉自身が業を煮やして出陣してきたので、再び信雄に援軍を要請して遂に守り通している。さらに11月、秀吉に通じた福田氏を尾張国長久保に攻めて攻略し、これらの功績により信雄から感状を受けている。
天正14年(1586年)7月23日、信雄から4819貫文余の知行を受けている。以後も信雄の家臣として仕えたことは確認できるが、その後の活躍は確認できず没年も不明である。