出浦対馬守
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出浦 対馬守(いでうら つしまのかみ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。村上氏、武田氏、真田氏に仕えた。子に昌相。諱は不詳。受領名は対馬守。妻は花叟妙蓮大禅定尼か[1]。
生涯[編集]
はじめ村上義清に仕え[1]、その後に武田信玄、勝頼に仕えたと考えられる。天正10年(1582年)3月に織田信長により武田家が滅ぼされ、6月の本能寺の変で信長が死去して旧武田領を任されていた織田家臣団が美濃に逃亡すると独立した国衆の一人となり、6月19日に北条氏直から同心するように書状が送られている[1]。天正11年(1583年)から真田昌幸に従属した[1]。
没年は不明だが、息子の昌相が受領名の対馬守を慶長7年(1602年)から称しているため、この前後に没したとなると村上家に仕えていた事を考えてもかなりの高齢である[2]。
上杉景勝の「文禄三年定納員数目録」に山浦国清(村上義清の子)同心として出浦対馬の名前があるため、上杉氏に従属していた可能性もある[2]。