三渓園

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

三渓園(さんけいえん)は、原三溪1906年明治39年)5月1日に公開した神奈川県横浜市中区本牧三之谷にある庭園と建物群である。重要文化財が10棟と横浜市指定有形文化財が3棟ある。

概要[編集]

三渓園の庭園は池を中心とする外苑と奥の谷付近の内苑とがある。全体で14棟の古建築とその他の建物がある。内苑には旧燈明寺三重塔、旧燈明寺本堂、旧東慶寺仏殿、旧矢箆原家住宅、横笛庵がある。内苑には臨春閣、旧天瑞寺寿塔覆堂、月華殿、金毛窟、天授院、聴秋閣、蓮華院、春草廬が配置されている。

三渓園の歴史[編集]

明治初年に原善三郎(三溪の養祖父)が三溪園一帯の土地を購入し、別邸を構えた。1896年に分家した原富太郎1902年に同地に本邸を完成させた。1905年(明治38年)頃から原三溪は本格的な造園を開始した。最初に移築されたのは栃木県の製糸工場にあった神社と寒月庵と待春軒であった(1902年)。これらの建物は、神社と待春軒が焼け、寒月庵は伊豆山に移築されたため、いずれも現存していない。園内に現存する建物で最も移築が早いのは、旧天瑞寺寿塔覆堂である。続いて1906年に横笛庵が建てられた。由来は奈良の法華寺と言われるが、詳細は不明である[1]。 1906年年5月1日に現外苑部分を無料で開園した[2]。この時点では旧燈明寺三重塔まだ移築されていない。 1917年には三渓園内で最も重要な位置にある臨春閣が完成した。入手したのは1906年であるから、完成まで約11年を要している。

1923年9月の関東大震災では原三溪が出張中であったため、妻の原屋寿子の判断で三渓園を解放し、1000人を超える横浜市民が避難してきた。屋寿子は毎日の炊き出しを行ない、孤児院を作り、もんぺ姿で働いた。また三渓園は1945年6月10日横浜空襲でも大きな被害を受けた。

大師会茶会[編集]

鈍翁(益田孝)が「やうやく取る年浪に其行末を慮り」、弘法大師筆『崔子玉座右銘』を寄付して財団法人を創設し、篤志家に順次預けることとした。これを引き受けたのが当時55歳の原三溪で、聴秋閣の移築をもって全園完成とした。

1923年4月21日4月22日、内苑の完成を記念して三渓園で大師会茶会を開催する[3]

重要文化財[編集]

有形文化財[編集]

  • 白雲邸 - 市指定有形文化財
  • 鶴翔閣 - 市指定有形文化財
  • 御門 (三渓園) - 市指定有形文化財。京都東山にある西方寺から移築された薬医門で1708年(宝永5年)頃の建築とみられる。

その他[編集]

  • 金毛窟
  • 蓮華院 - 原三渓が1917年に建設した茶室。二畳中板の小間と六畳の広間、土間。
  • 林洞庵 - 1970年に宗偏流林洞会から三渓園に寄贈されて、移築した。もとは山田宗偏の茶室である。
  • 横笛庵 - 1908年奈良市の法華寺から移築されたとされる。
  • 初音茶屋 - 簡素な壁のない茶屋。三渓園の開園当時の、初音茶屋で無料のお茶が来訪者に振舞われていたとされる。インドのノーベル賞文学者タゴール芥川龍之介らが記録した。1915年に訪れた当時は学生の芥川龍之介は友人(三溪の長男)宛ての手紙に湯茶接待の印象を 「ひとはかり浮く香煎や白湯の秋」と詠んだ。
  • 待春軒 - 待春軒は休憩やお茶を飲んだり、軽い食事をする茶屋である。三溪麺と言う名物料理がある。

 

焼失または園外に移築された建築[編集]

関東大震災で倒壊した建築[編集]

大正12年(1923年)の三渓園建物配置図では現存建築のほか松風閣、楠公社、皇大神宮、寒月庵などが記載されている[5]

  • 旧松風閣 - 明治20年頃、原三渓の義祖父「原善三郎」が建てた別荘である。三渓園の最高地点の崖の上に煉瓦瓦礫の遺構がある[6]
  • 聚星軒 - 1887年頃、松風閣とともに原善三郎が築造した中国風の意匠が特徴の建物。関東大震災で倒壊した。

太平洋戦争で焼失した建築[編集]

  • 楠公社 - 観心寺(大阪府河内長野市)の境内にあった1334年楠木正成が建立した西の宮を明治42年(1909年)に移築したものといわれる。昭和20年(1945年)6月10日に空襲のため焼失して、現存しない。
  • 皇大神宮 - 寒月庵、待春庵とともに栃木県大嶹製糸場から移築された。1945年6月10日に空襲のため焼失した。鳥居、石段、灯籠等の一部のみが残る。
  • 杉の茶屋 - 屋根ばかりでなく壁面にも杉皮が張り込まれた建物。柱や梁などの木部も皮付きの杉材が用いられていた。戦時の爆撃で焼失した。
  • 田舎家
  • 月影の茶屋

ウォーナー・リスト [編集]

ウォーナー・リスト(138 箇所の攻撃対象外の文化財施設)に三渓園の記載があるのに、に(地図上には 2 重丸がなかった)何故、三溪園が爆弾攻撃を受けたかは謎であった。高射砲陣地や特殊潜航艇基地が付近にあったからとの見解もあるが、リストの配布先対象は軍将官であるため、徹底されなかった可能性もあると言われる。

基本事項[編集]

  • 名称:三溪園
  • 運営主体:財団法人三溪園保勝会
  • 開園時間:9時~17時(入園は閉園の30分前まで)
  • 休園日:12月29日、30日、31日
  • 入園料
    • 大人(高校生以上) 700円 (団体 600円)
    • こども(小学生・中学生)200円 (団体100円)
    • 横浜市内在住65歳以上: 200円
  • 所在地:神奈川県横浜市中区本牧三之谷58
  • 交通:根岸駅から 1番のりば 《市バス58・99・101系統》約10分 本牧下車・徒歩10分

公式ページ[編集]

リファレンス[編集]

  1. 平井聖・大岡信(1993)『三渓園』新潮社
  2. 三溪園を語る —開園から100周年浜(1)有鄰、第462号、平成18年5月10日
  3. 『茶会漫録』第11集、大正14年12月刊。内外商業新報社版、pp.7~3
  4. 御谷館鎌倉そして三溪園
  5. 大正12年の三溪園の建物配置図有鄰、第462号、平成18年5月10日
  6. 青木祐介、坂上克弘、鈴木重信(2011)「三溪園旧松風閣調査報告」『横浜都市発展記念館紀要』7号、口絵pp.5-8、pp.25-62