ハインリヒ・ヒムラー

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反ユダヤ主義は、
ダニ掃除のように清潔感の問題なのだ

 - ハインリヒ・ヒムラー

ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(独:Heinrich Luitpold Himmler、1900年10月7日 - 1945年5月23日)とは、ドイツの政治家・ナチス親衛隊全国指導者。ナチズムの実行者、というべき存在である。

前半生[編集]

  • 1900年ドイツ帝国の都市ミュンヘンで生まれる。父ヨーゼフはバイエルンの名家出身で、バイエルン王子の家庭教師も勤めていたそうだ。幼い頃のヒムラーは勤勉で温厚な少年であり、当時の同級生はヒムラーについて「虫一匹も殺せないような優しい子羊だった」と述べている。
  • 1914年第一次世界大戦が始まるとヒムラーも軍に志願する。しかし、壊滅的な運動不足で目も悪かったため入隊は難航。1917年末にようやく陸軍歩兵師団に入れたものの出撃を目の前にしてドイツは敗戦してしまう。ヒムラーは参戦できなかったことを相当悔やんだようである。
  • 敗戦後の混乱の中でヒムラーは慈善活動に取り組み、貧しい高齢者に食糧を寄付したり、病気の友人の見舞いに行ったりした模様。一方、彼は右派組織にも参加するようになり、少しづつ反ユダヤ主義や国家主義へ染まっていったと思われる。

ナチスへ入党[編集]

  • 1923年、ヒムラーはナチスへ入党する。なお、これは彼の参加する反共義勇軍の上司であるエルンスト・レームに付き従ったからである。しかし、ミュンヘン一揆などを経て彼の忠誠心はレームよりヒトラーへ向けられるようになった。1925年、発足したての親衛隊(SS)へ入隊し、1929年に親衛隊全国指導者へ就任、組織の拡大に尽力した。ヒムラー入隊時の隊員数は200人程度であったが、1932年時点で3万人強へ膨れ上がっている。
  • 親衛隊を拡大させていく中で、ヒムラーは元上司で突撃隊隊長のレームを疎ましく思うようになった。彼はヒトラーに突撃隊がクーデターを画策しているとの説得を繰り返し、遂に処刑の許可を取り付ける。1934年、親衛隊員は休養中であったレームとその側近たちをその場で逮捕・即刻処刑した。所謂長いナイフの夜事件である。これにより親衛隊はナチスの武装組織としての地位を確立させた。

親衛隊全国指導者[編集]

  • ヒムラーは親衛隊の権限拡大を狙い、事ある毎に理由をつけて他の組織の権力を奪い取っていった。この結果、大戦直前時点で親衛隊はスパイ活動や秘密警察、軍隊までこなす巨大組織に成長した。なお、ナチスの悪名高い強制収容所を運営していたのも親衛隊である。
  • 当初、親衛隊に入隊するためには1600年ごろまで家系図を遡り、異民族の血が混入していないことを調べる必要があった。が、流石にそんなことは不可能なので金髪碧眼などの外見的特徴で評価されることとなった。
  • 隊員には徹底的な指導教育が叩き込まれ、エリート意識が植え付けられた。これがヒトラーへの忠誠心、団結力へつながっていくこととなる。

戦中の活動[編集]

  • 第二次世界大戦が始まると、ヒムラーは占領地域各地のユダヤ人虐殺を命令。ソ連領内ではアインザッツグルッペンが手当たり次第虐殺を行った他、ポーランドオランダフランスのユダヤ系住民をトレブリンカ、アウシュビッツ=ビルゲナウと言った絶滅収容所へ輸送した。一連のホロコーストにより多くて600万人が死亡したと言われている。一方で、ヒトラーはヒムラーの働きを賞賛し、「忠臣ハインリヒ」と褒め称えた。
  • 親衛隊は占領各地での「敵性分子」摘発にも動き、ユダヤ人・共産主義者・フリーメイソンなど「反ドイツ的」と見なされた人々を殺害した。さらに、金髪碧眼の子供を「ドイツ化」するとして誘拐した。
  • また、ヒムラーは同盟関係であった大日本帝国中華民国内のユダヤ人殲滅を要求したが、日本政府は非人道的であるとして拒絶している。

最後[編集]

  • しかし、1945年にも入るとドイツの敗北は確実となった。そこでヒムラーは、ヒトラーの許可なしに単独で連合軍と講和し、親衛隊中心の新しいドイツを建国しようと思い立つ。早速ノルウェーを通じて連合軍との交渉を試みるが、当然相手にされずその一部始終を全世界に暴露されてしまった。
  • 「忠臣」と呼んでいたヒムラーの裏切りを知ったヒトラーは激怒。ヒムラーから全権限を剥奪し、処刑するよう命令した。なお、総統閣下シリーズにてヒトラーが食事中にブチ切れするシーンが存在するが、あれはヒムラーに対してキレている。
  • しかし、その直後にヒトラーが自殺、ドイツは敗北したためヒムラーは処刑を免れた。ヒムラーは身分を偽って逃走を図るもイギリス兵によって無事逮捕された。
  • 捕虜として扱われることに耐えかねたヒムラーは口中に隠していた青酸カリのアンプルを噛み砕いて自殺しようとした。看守たちはヒムラーをひっくり返したりして自殺を防ごうとしたが、結局ヒムラーは15分ほどもがき苦しんだ後に死亡した。
  • ヒムラーは彼が殺した数百万人と同じように、どこかの森に埋められたのであった。享年44。

参考文献[編集]

  • 『ヒトラーの12人の共犯者(上)』

関連項目[編集]