アインザッツグルッペン

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アインザッツグルッペン(独:Einsatzgruppen)とは、第二次世界大戦で活躍したナチス・ドイツの悪名高い組織である。

前史[編集]

ナチスの国家保安本部(RSHA)長官ラインハルト・ハイドリヒによって1938年に結成された。当初はオーストリアチェコのドイツ併合地域で反ドイツ的な人物の調査を行うスパイ組織であったが、1939年のポーランド侵攻に際して教師政治家貴族軍人といった知識人層の粛正を行うものに改編された。ポーランドでアインザッツグルッペンは約6000~7000人を虐殺したとされている。

独ソ戦[編集]

1941年6月には独ソ戦が始まったが、赤軍の焦土作戦によって戦場は無法地帯と化し、民間人による反独パルチザン活動が横行していた。そこでこうしたパルチザンを壊滅させるためにA(アー)、B(ベー)、C(セー)、D(デー)の4つのグルッペが編成され、前進するドイツ国防軍の後方で活動した。隊員は主に親衛隊隊員、警察官から構成されていた。虐殺対象となったのはソビエト連邦の共産党員やユダヤ人ロマ、パルチザンであった。しかし、選別がかなり雑であったため、普通の民間人も「共産主義者」「パルチザン」として殺戮された。当初殺害方法は首筋撃ちとされたが、隊員の心理的負担を軽減するために一斉射撃に切り替えられ、最終的には効率的な「イワシ缶方式」となった。なお、「イワシ缶方式」とは、犠牲者は塹壕に寝させられて銃殺され、その上に次の犠牲者が横になる・・・といったことを繰り返す虐殺方法である。これによりアインザッツグルッペンは1941年から1944年までに多くて約130万人、少なくても約70万人を殺害したとされている。一方で、虐殺側も必ずしも楽しんでやっていたというわけではなく、隊員の中には酒に溺れる者や良心の呵責に耐えかねて自殺する者もいた。また、ナチス親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーも現場を視察した際は気分を悪くして嘔吐している。

戦後[編集]

ドイツの敗色が濃厚になるとナチスはこうした虐殺の証拠隠滅を図ったが、ソ連軍の進撃が急だったため間に合わず、数々の犯罪行為が世界中に晒されてしまった。戦後、1947年から1948年にかけてアインザッツグルッペンの指揮官を裁く軍事法廷が開かれ、被告人のほとんどが死刑あるいは懲役刑となった。

関連項目[編集]