お召列車事件
お召列車事件(おめしれっしゃじけん)とは、明治44年(1911年)11月10日に門司駅構内で発生した事件である[1]。
概要[編集]
事件に至るまでの経緯[編集]
明治44年(1911年)11月10日、福岡県久留米市で行なわれる陸軍の大演習親臨のため、明治天皇は前日に宿泊した山口県三田尻の毛利侯爵別邸から下関港を経て、正午過ぎに門司港桟橋に上陸した。明治天皇は予定では、桟橋待合所において5分ほど休憩し、その後に門司駅に移動してお召列車に乗って羽犬塚駅に向かうことになっていたのだが、お召列車が門司駅構内で発車準備中に脱線し、復旧のため明治天皇は待合室でおよそ1時間ほど待機することになり、その後に目的地に向けて出発した。
つまり、事件と言っても不測の事故で予定が1時間ほど遅れただけなのである。ところが、マスコミが翌日の新聞で騒ぎ出したから事が一気に大きくなった。
「御召列車脱線、門司駅の大失態」「是が為め畏れ多くも至尊の御身を以て鉄道桟橋元旅客待合所の一隅に玉体[2]を駐めさせ給ひぬ」「此大失態大不敬」(東京朝日新聞) 「原総裁[3]初め鉄道院の面々非常に狼狽して恐懼措く処を知らざる有様」(大阪毎日新聞)
このように、マスコミが鉄道院の責任を追及しだしたのである。
そして、事件が一気に過熱したのは、11月11日の夜に門司駅構内主任だった鉄道員の清水正二郎(当時32歳)が、下関近くの線路上において轢死体で発見されたことであった。清水は遺書を身に着けており、鉄道員総裁や局長、各課長、駅長、同僚などに宛てて以下のように残していた。
「御召列車、入れ替えの際、事故にかかりやい、実に残念」「幹部に申し訳のため、自殺す」
とあり、明らかな引責自殺だった[1]。
身勝手なマスコミたち[編集]
それまで、鉄道院の責任を追及していたマスコミの論調は、この名も無き鉄道員の自殺を知ると、今度は同情一色に騒ぎ出した。清水の自殺が「天聴[4]に達して明治天皇は金300円を遺族に下賜」「宮中では弔慰金が集められた」ことなどを記事にして、逆に清水を賛美しだしたのである。
11月28日、福岡玄洋社系の九州日報は、一面トップの社説で以下のように美辞を並べて絶賛しているほどである。
「清水氏の死は忠君愛国の熱血」「一小吏の血管に沸き返っている」
しかも玄洋社は、清水の記念碑を建立することを世間に発議したのである。
マスコミとは令和5年(2023年)2月の現在でも身勝手な世論作りがよく見られるが、明治末期のこのご時世に既にそれは見られていた。例えば、清水の死は遺書を見る限りは明らかに鉄道院の面目を失わせたことに対する引責自殺のはずなのに、そうした心情は全く語られずに「忠君愛国」の理念に塗り替えられている。さらに、マスコミはこの世論を自分たちで形成して、それに乗っかかっているのである[1][5]。
清水の死の美化に対する反論[編集]
このような身勝手なマスコミの世論づくりに対し、反論する人物がいた。12月2日に九州帝国大学総長の山川健次郎は福岡日日新聞において以下のような談話を発表している。
「死者(清水)の心事には同情するが、あの事件が命を捨てねばならないほど重大だったとは思えない。赤子のひとりである自分の命を、あのようなことで捨てるのが果たして陛下の叡慮にかなったことなのか。生きて職務に励むのが本当の忠義ではないか。あの行為を賞賛するのはとりもなおさず、自殺を奨励することであり、ましてや碑を建てることなど、私は反対である」
これを知ったマスコミ、特に玄洋社は山川を一斉に排撃しだした。九州日報を使ったり、日本政府要人に根回ししたり、帝国議会で山川と当時の西園寺公望内閣(第2次)、さらに文部大臣・牧野伸顕の責任を追及する意見書を提出するまで問題を拡大したのである。これに対して山川はあくまで自説を堅持して一歩も譲らず、大正2年(1913年)に山川が九州帝国大学から東京帝国大学総長に転任することで、騒ぎはようやく沈静化されたという。この間に清水の顕彰碑が福岡市の東公園内に建立された[5]。
平世における事件の論文[編集]
平成5年(1993年)3月に発行された人文学報に小股憲明が書いた論文として「門司駅員の引責自殺と山川健次郎言責事件」というものがあり、そこでは明治の当時に天皇を迎える地元の奉迎準備の有様が詳しく述べられているという。
「久留米では医師会が動員されて、明治天皇が通る沿道筋全戸に対する健康診断を行なった」「不体裁なる家屋の外方に板囲又は竹垣を設置した」 「門司では桟橋から門司駅の道筋には当日、学校の生徒から華族まで身分、役職、納税額などによって30数段階にも「区別」されたおよそ1万人もの奉送迎者が整然と並んで待機していた」
とある[5]。当時の天皇が余りに国民から乖離した存在で、まさに「神聖にして侵すべからず存在」であったということなのかもしれない。