韋康

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韋 康(い こう、? - 212年)は、中国後漢末期の政治家武将元将(げんしょう)[1]。父は韋端。弟は韋誕曹操家臣

生涯[編集]

司隷京兆郡(現在の陝西省西安の西)の出身[1]荀彧の推挙を受けて曹操に仕える父親は曹操に仕える涼州刺史であったが、曹操に太僕として中央に招聘されたため、代わって同州の刺史となる[1]。212年に馬超が反乱を起こした際、冀城に籠城して8ヶ月間抵抗したが、夏侯淵の援軍が到着する前に敗死を遂げた[1]。『楊阜伝』では当時部下であった楊阜が反対したにも関わらず馬超に降伏して開城し、馬超の援軍として加わっていた張魯配下の楊昂により殺害されたという。

孔融から「意志が強く、度量が大きい」(「双珠(韋誕とふたり)、老蟒(どぶがい)より出ず」)と評価されている[1]

三国志演義』でも同じような顛末を迎えている。

脚注[編集]

  1. a b c d e 小出『三国志武将事典』P236

参考文献[編集]