青山忠成
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青山 忠成(あおやま ただなり、1551年8月6日 - 1613年2月20日)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将、大名。通称は藤右衛門(とうえもん)。
概要[編集]
青山氏史上最も著名かつ重要な人物である。
生涯[編集]
出生[編集]
1551年に三河にて出生。父は青山忠門。忠門の頃に松平氏(徳川氏)家臣となった。
家督継承[編集]
1571年(1572年とも)に父忠門が戦没したため家督を継承し、その後武田氏との合戦で武功を挙げた。
二代将軍の傅役[編集]
1580年、主君の徳川家康により、家康の三男である長丸(後の徳川秀忠)の傅役となる。
関東総奉行へ[編集]
1588年に長丸らに従い、上洛。その後の小田原征伐で5000石を与えられる。この時に関東総奉行に任命され、領地は現在の港区青山に土地を与えられた。この「青山」と言う地名は、忠成の屋敷がかつてあったことが影響し名付けられた。さらに1593年には2000石加増され、7000石の大名となった。
大出世から蟄居に[編集]
1600年、徳川秀忠に従い上田城合戦を戦う。関ヶ原には遅参したものの、1603年に常陸国信太郡江戸崎を与えられ、江戸崎藩を立藩した。
同年には江戸町奉行職及び老中に任命される。しかし、1606年に家康一向と鷹狩に随行した際に失態を起こし、蟄居を命じられる。その後すぐに赦免された。
最期[編集]
逸話[編集]
「青山」の領地[編集]
小田原征伐を終えて関東に移封となった徳川氏にて、領地配分が行われた。その際、忠成は家康に「馬で一周した場所を領地として与える」と言い、忠成は馬が倒れるまで広大な場所を一周し、その場所5000石が領地となった。