釜茹で

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釜茹で(かまゆで)とは、人間を生きたまま茹で殺す処刑方法である。釜煎り(かまいり)、煮殺し(にころし)とも呼ばれている。

概要[編集]

中国[編集]

釜茹で刑は古代中国の時代を発祥とする。殷の最後の王で暴君として有名な紂王が考案したものとされ、罪人を大きな釜で煮殺してから、それに味付けとして肉汁に罪人の肉親に無理矢理食べさせたという。その後の春秋時代戦国時代三国時代にも釜茹で刑の記録は多く残っている。そのため、釜茹で刑は古代の中国ではかなり一般的な処刑法だったようである。

欧州[編集]

イギリスでは16世紀に廃止されるまで、釜茹で刑が行われた記録がある。

日本[編集]

日本ではこの刑罰が実は一時代を除いてほとんど行なわれていない。これは日本人がこの罪人を長く苦しめるやり方を余り好まなかったため、とされている。日本で有名な釜茹でに豊臣秀吉が大盗賊で知られる石川五右衛門に対して行なったことで知られている。当時、京都に滞在していたイエズス会宣教師の記録によると、石川五右衛門とその一味は京都で捕縛され、文禄3年(1594年)に三条河原で釜茹でにされたとある。また、江戸時代初期の記録であるが『豊臣秀吉請』によると「(当時の)京都の治安を担当する豊臣氏奉行前田玄以が盗賊の石川五右衛門とその一味と親族の20名を捕縛して、釜煎り刑に処した」とある。

釜茹では記録によると沸騰した湯の中に罪人を投げ込んで殺したという。100度の沸騰した湯の中に罪人を投げ込めば、その罪人は絶叫を上げてすぐに死んでしまう。大抵は全身火傷によりショック死する。豊臣秀吉はすぐに死んでしまうと面白くないと考えたのか、石川五右衛門を殺す際に水ではなく油を使ってゆっくりと煮殺したという。油が沸騰した場合、水が沸騰するよりも遥かに高温となり、絶命した頃には人間の唐揚げが出来てしまう。ただ、当時は菜種油の大量生産は行われておらず、荏胡麻油が一般的だった。荏胡麻油は非常に高価で少量しか生産されていない。しかも20人を1度に放り込む大釜を満たすのにかなりの費用を捻出したものと推測され、この処刑にパフォーマンス大好きな秀吉はかなりの手を入れたものと思われる[1]

秀吉は石川五右衛門の釜茹では見せしめの意味で市民の見物も許可し、多くの見物客が訪れた。油を満たした大釜の中に石川五右衛門が縛られた状態でまず放り込まれ、さらに妻子や一族が次々と放り込まれた。薪がどんどんくべられて油の温度は急上昇し、50度を超えたころには悲痛な絶叫も飛び交ったと思われる。記録によると、石川五右衛門は幼い息子をこの苦しみから解放してやるために自分の足の下に沈めて踏みつけて窒息死させようとした、と言われている。石川五右衛門らは人間唐揚げになりながら死を迎えた、と言われているが、記録によるとこの処刑を見ながら見物客は笑顔で眺めていたという。

なお、五右衛門風呂(ごえもんぶろ)で現在有名な名称は、この石川五右衛門の処刑に使用された釜を発祥とするものである。

脚注[編集]

  1. 石川五右衛門の処刑については石田三成など奉行衆は費用がかからず、見せしめに最適な鋸挽きなどの意見があったが、秀吉により釜茹でと決定されたという