足利満直
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足利 満直(あしかが みつなお、又は、みつただ[1]、? - 永享12年6月10日(1440年7月9日))は室町時代中期の武将。篠川御所(篠川公方)と呼ばれる[1]。第2代鎌倉公方・足利氏満[1]。第3代鎌倉公方・足利満兼の弟。他の兄弟に満隆、満貞、満季。
生涯[編集]
応永6年(1399年)春に第3代鎌倉公方となった兄の満兼の命令で陸奥篠川に派遣されたので、篠川御所と称された[1]。ただし同時期に稲村に派遣されて稲村御所と称された兄弟の満貞と御所が入れ替わる説がある[1]。この派遣は陸奥管理のためで、かつての奥州探題と権限は同様だった[1]。ただし篠川御所の発給文書は永享の乱を最初に確認されているため、満直の年齢等を考えても両御所は並置では無く権限も同等ではなく、稲村御所が奥州管理の中心的存在だったと見られる[1]。
応永23年(1416年)に上杉禅秀の乱が起こると上杉禅秀に属して甥の足利持氏と敵対し、反持氏の兵を募った[1]。永享10年(1438年)の永享の乱でも持氏と敵対して足利義教と連携し、持氏を助けた稲村御所とも敵対した[1]。永享の乱が終結した後に発生した結城合戦の際、持氏の遺児である足利春王丸や足利安王丸を擁立した結城氏朝に味方する奥州の諸大名に攻められて永享12年(1440年)6月10日に自殺した[1]。