真宗 (宋)
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真宗(しんそう、乾徳5年12月2日(968年12月23日) - 乾興元年2月19日(1022年3月23日))は、北宋の第3代皇帝(在位:至道3年3月29日 - 乾興元年2月19日(997年5月8日 - 1022年3月23日))。
略歴[編集]
父は第2代皇帝の太宗で3男。そもそも初代皇帝・太祖趙匡胤の死後から北宋の後継体制は直系ではない継承が続いていたが、この真宗の時代が初めて直系継承となる。ただし、太宗の跡は本来ならその弟の趙廷美が継承するように定められていたとする説があり、また少なくとも真宗には長兄に趙元佐がおり、本来なら皇位継承などできる立場ではなかった。しかし、太宗により趙廷美、趙元佐らはいずれも排除されたので、997年の太宗の崩御により即位した。
即位後は伯父の太祖、父の太宗の文治方針を引き継ぎ、経済と産業の育成に尽力した。ただし行き過ぎた文治主義、内政開発などにより、かえって北宋の軍事力が弱体化した一面は否めない。そして同時期に北方では遼が台頭し、1004年に北宋に向けて侵攻を開始した。これに対して真宗も自ら親征して遼軍と対峙し、結果的に和議を結んだ(澶淵の盟)。その代償として毎年、遼に北宋は高額の歳幣を与えることが取り決められた。ただ、これは皮肉にも北宋のさらなる経済発展に繋がったところもある。
晩年の真宗は、道教を妄信して王欽若らの提言を容れて封禅の儀や宮殿造営などを行なって莫大な費用を投じて乱費を繰り返し、これが後年の北宋の財政難につながる一因をなした。1022年に崩御。享年55。皇位は第6子の仁宗が継承した。
家族[編集]
妻妾[編集]
- 正室:章懐皇后(莒国夫人)潘氏、章穆皇后郭氏、章献明粛皇后劉氏
- 側室:章懿太后李氏、章恵太后楊氏
- 貴妃杜氏、貴妃沈氏(沈倫の孫娘)、賢妃曹氏(曹彬の娘)、賢妃陳氏、順容戴氏(戴興の娘)
- 美人徐氏、才人陳氏
- 典正張氏、張氏[1]、王氏
男子[編集]
- 趙禔(夭折)
- 悼献太子 趙祐 - 母は章穆皇后郭氏。9歳で早世した。
- 趙祇(夭折)
- 趙祉(夭折)
- 趙祈(夭折)
- 仁宗 趙禎 - 母は章懿太后李氏。