趙元佐

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

趙 元佐(ちょう げんさ、965年 - 1027年)は、北宋皇族。本来ならば北宋の第3代皇帝となるはずだったが、廃嫡された。初名は趙徳崇。惟吉

略歴[編集]

父は北宋の第2代皇帝の太宗(趙匡義)。母は元徳皇后李氏。弟に趙元僖真宗趙元份趙元傑趙元偓趙元偁趙元儼趙元億らがいる。

太宗の長男であり、また幼児から聡明で容貌も父親によく似ていたことから、太宗に早くから後継者と目されていた。しかし、元佐は清廉な人物だったことから、太宗が即位の経緯で行なった千載不決の議をはじめ、伯父の初代皇帝・太祖趙匡胤が定めていた後継者候補の趙廷美趙徳昭らを失脚させてほぼ死に至らしめたも同然のことをした父の行為に、真っ向から批判したという。叔父の趙廷美が流罪にされることに最後まで反対し、その趙廷美が憤死を遂げたころからショックのためか精神に異常をきたすようになり、985年に自らが住む宮殿に放火するという行為を行なったので、太宗の怒りを受けて後継者の地位を奪われた上で皇籍を外されて庶民に落とされ、さらに禁中の南宮に押し込められたという。そしてそこで、1027年に62歳で死去するまで廃人のように過ごしたといわれている。

同母弟の趙恒が真宗として第3代皇帝に即位したが、皮肉にもその真宗より長命を保った。また、元佐の子孫は南宋まで存続しており、趙汝愚が南宋初期に宰相として活躍している。