西方藩

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西方藩(にしかたはん)とは、江戸時代前期のわずかな期間だけ下野国西方に存在したである。藩主家は外様大名藤田氏。藩庁は西方陣屋。現在の栃木県栃木市西方町本城に存在した。

概要[編集]

西方はもともと、下総国結城城主の結城晴朝の所領であったが、後に下野国壬生藩主の日根野高吉の所領となる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、徳川家康に反抗的な態度を見せていた会津若松城主の上杉景勝直江兼続らに対し、上杉家臣の藤田信吉は家康への恭順を説き、同年の正月には信吉は上洛して家康に謁見した。ここで家康から手厚くもてなされた信吉は家康の実力を悟り、帰国後も景勝に対して恭順を勧めるようになる。ところがそれを直江兼続は信吉が家康と内通したと決めつけ、討手を差し向けた。信吉はやむなく上杉家中から退転を余儀なくされ、江戸にあった徳川秀忠を頼って事の次第を告げた後、京都に入って剃髪した。関ヶ原の後の慶長8年(1603年)、家康は信吉に対して1万5000石の所領を与えて、信吉は西方藩主として封じられることになった。

しかし慶長20年(1615年)の大坂の役の後、信吉は幕命によって改易され、ここに西方藩は廃藩となった。改易の理由は大坂の役における失態などが挙げられているが、詳細は不明。なお、信吉は改易の翌年に不審死を遂げている。

歴代藩主[編集]

藤田家

外様。1万5000石

  1. 信吉