葛西善蔵
葛西 善蔵(かさい ぜんぞう、1887年(明治20年)1月16日 - 1928年(昭和3年)7月23日)は、日本の小説家である。石坂洋二郎や太宰治らに大きな影響を与えた放浪作家として有名である。
来歴[編集]
現在の青森県弘前市で生まれる。葛西が生まれた翌年の明治21年(1888年)、一家は北海道に引っ越したが、わずか3年後に帰郷し、後に碇ヶ関村に居を構えた。葛西はこの村で多感な時期を過ごした。
地元の小学校卒業後は上京。夜学に通ったりして北海道に渡って鉄道員を務めたりもした。明治37年(1904年)、上京して東洋大学に入学するも中退した。明治41年(1908年)に結婚し、さらに徳田秋声の門下となる。大正元年(1912年)9月に舟木重信や相馬泰三、広津和郎らと同人雑誌である『奇蹟』を創刊し、その号に「哀しき父」を発表して一気に小説家として上り詰める。その後も『早稲田文学』に「贋物さげて」(大正6年(1917年)創刊)、「子をつれて」(大正7年(1918年)創刊)など自作を次々と発表。小説家として時代を代表する人物となる。
ところが私生活では居所を転々として放浪したり、持病の胸部疾患に苦しんだりと不遇だった。『椎の若葉』をはじめ、『湖畔手記』『酔狂者の独白』と代表作を次々と発表するも、持病の悪化により『酔狂者の独白』が最後の作品となる。
昭和3年(1928年)7月23日、持病の胸部疾患の悪化により、東京府世田谷の三宿町において41歳で死去した。
その最期を看取った者の証言によると、「彼(葛西)は半意識で指を伸ばし、『切符、切符』と呟いた。これが臨終の言葉であった」とある。切符が何のことかはわかっていないが、谷崎精二が『放浪の作家』という一文に「恐らく彼(葛西)は、碇ヶ関村までの切符を買って郷里へ引き揚げる望みを最後まで捨てなかったのだろう。彼が人生の最後に求めたものは郷里へ帰るための一枚の切符であった」と述べている。
死後[編集]
葛西の小説は自然主義的小説の一つの到達点を示すものであり、苛烈な自虐精神と贖罪意識に満ち溢れたその作品は嘉村磯多、そして太宰治らに大きな影響を与えた(ちなみに太宰とは同じ青森県の出身)。
著書[編集]
- 不能者 新潮社 1919 (新進作家叢書)
- 子をつれて 新潮社 1919
- 馬糞石 春陽堂 1920
- 贋物 春陽堂 1921 (新興文芸叢書)
- 哀しき父 改造社 1922
- 椎の若葉 新潮社 1924
- 葛西善蔵全集 第1-5巻 改造社 1928-30
- 葛西善蔵選集 第1-2巻 改造社 1947-48
- 子をつれて 岩波文庫 1952
- 葛西善蔵全集 全3巻別巻1 津軽書房 1974‐75
- 葛西善蔵全集 文泉堂書店 1974 (日本文学全集・選集叢刊)
- 椎の若葉・湖畔手記 旺文社文庫 1976
- 葛西善蔵随想集 阿部昭編 福武文庫 1986.9
- 哀しき父・椎の若葉 講談社文芸文庫 1994.12