徳田秋聲

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徳田秋聲(明治4年(1871年)12月23日(旧暦。新暦では1872年1943年11月18日)は、日本の文豪。

人物[編集]

石川県金沢市生まれ。本名・末雄。第四高等中学校を中退し、桐生悠々とともに上京、尾崎紅葉を訪ねるが会えず、大阪で西成郡役所に勤めるが、東京へ戻って博文館に勤め、泉鏡花の紹介で紅葉に入門する。十千万堂(とちまんどう)で小栗風葉柳川春葉と共同生活をし、「藪こうじ」を発表、明治30年、紅葉の推薦で読売新聞社に入り、同紙に「雲のゆくへ」を連載して文名をあげる。小沢はまと結婚、明治36年、紅葉が没する。

紅葉没後は、台頭してきた自然主義寄りの作風で、明治40年以降、「新世帯」「足跡」「黴」「爛」といった、女の有為転変を描いた作品で知られるようになるが、そのほか生涯に多くの通俗小説を新聞などに連載して裕福であった。大正4年(1915)に発表した「あらくれ」が初期の代表作となる。同郷の泉鏡花は、紅葉没後、作風において裏切ったことと、紅葉の死の模様を小説に描いたことで秋聲を憎んでいた。

1923年、同郷の島田清次郎が婦女誘拐事件を起こしたので援護に当たる。1924年、山田順子が弟子を志願して訪ねてくる。1926年妻はまが急死すると弔問に来た順子と急速に親しくなり、師弟を超えて愛し合うようになり「順子もの」と呼ばれる短編を発表し始める。だがその後順子とは疎遠になり、順子は若い勝本清一郎の愛人となる。秋聲を称える「あらくれ会」が発足した。川端康成は、日本文学史では西鶴の次に徳田秋聲が来ると言うほど秋聲を敬慕していた。一方、泉鏡花と和解させようとしたところ、秋聲が「紅葉先生は甘いものばかり食べたから胃がんになったんだ」と発言したので、鏡花が飛び上がって秋聲を殴りつけたという話もある。

その後、1937年に帝国芸術院ができると会員に選ばれる。順子との関係をまとめた『仮装人物』で菊池寛賞を受け、1941年に新聞に「縮図」の連載を始めたが、情報局の干渉で中絶。1942年には野間文芸賞島崎藤村とともに受賞した。

長男・一穂は作家となり、次女の喜代子は作家の寺崎浩と結婚した。

伝記[編集]