辛憲英
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辛 憲英(しん けんえい、191年[1] - 269年[1])は、後漢末期から三国時代の魏・西晋にかけての女性。父は辛毗。伯父に辛評。弟に辛敞。羊耽の妻で羊琇の母。羊祜の叔母。時流を見抜く才女として知られる。
生涯[編集]
辛毗の娘で太常の羊耽に嫁ぐ[1]。217年に曹丕が王太子に指名された際、曹丕は喜びの余り辛毗の首に抱きついた[1]。それを聞いた辛憲英は「国を主宰することを憂うべきなのに喜ぶとは魏は隆盛を保てましょうか」と答えたという[1]。
249年、司馬懿により正始の変と称されるクーデターが起こされると、司馬の魯芝が一緒に曹爽の下に駆けつけようと辛敞を誘った[1]。辛敞は曹爽の参軍であったがこれを迷って姉に相談する[1]。辛憲英は司馬懿の政変は成功して曹爽が処刑されるであろうことを見抜いていたが、弟は曹爽に仕えているのだから職務を全うするように言いつけ、辛敞は曹爽の下に駆けつける[1]。これが忠義として司馬懿から評価され、曹爽一党の処刑の際に辛敞は連座せずに済み、姉に感謝した[1]。
262年、鍾会が鎮西将軍に任命されると甥の羊祜に「鍾会は独断で事を対処するから野心を持つことが心配」と述べて羊祜を慌てさせた[1]。263年、羊琇は鍾会の参軍として蜀征伐に従軍する[1](蜀滅亡)。羊琇は事前に母親から鍾会の事をよく聞いていたため、蜀滅亡後に鍾会の反乱とその鎮圧騒動が起きて多くの将兵が非命に倒れる中で生き延びて無事に帰国した[1]。
辛憲英は質素倹約を好み、羊祜から華美な服を贈られてもそれを裏返しにして着たという[1]。269年に79歳で死去した。
『三国志演義』では第107回に登場。弟に辛敞と史実通りのやり取りをしている。