織田信好

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織田 信好(おだ のぶよし、? - 慶長14年7月14日1609年8月13日))は、安土桃山時代武将織田信長の10男。兄弟に信忠信雄信孝秀勝勝長信秀信高信吉信貞長次信正らがいる。官位従五位下左京亮[1]

生涯[編集]

幼名は(ちょう)[1]。諱は長好(ながよし)と言われているが、これはちょうこうと読んで幼名であるとされている[1]。生母は不詳[1]

天正10年(1582年)の本能寺の変で父・信長が死去し、その後に覇権を掌握した羽柴秀吉によって信長の葬儀が京都紫野の大徳寺で行なわれた際、信好は位牌を持つ役目を果たし、その後ろに秀吉が不動国行の太刀を捧げ持ったという[1]

織田家雑録』によると近江に知行を与えられたとされている。秀吉の家臣となり、慶長14年(1609年)7月14日に死去[1]。法名は徳林院清巌円公[1]

信長の息子の中で信長の葬儀に出席したのは長次の他は秀吉の養子になっていた秀勝だけであり、このことから実際は10男ではなくかなり年長の息子だったのではないかとする説もある[1]。実際、系図と異なり『太閤記』『総見院殿追善記』では8男と記録されており、これからも年齢や順番を繰り上げる必要性があると推測される。10男になったのは生母の身分の問題の可能性もある。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h 歴史読本 『信長と26人の子供たち』P96

参考文献[編集]