秋沢修二
秋沢 修二(あきざわ しゅうじ、1910年9月29日 - 1991年8月27日)は、評論家[1]、哲学者[2]。本名は秋津賢一(あきつ けんいち)[1]。
経歴[編集]
静岡県沼津市の鼈甲商の長男に生まれた。沼津市立沼津尋常高等小学校(現・沼津市立第一小学校)卒。静岡県立沼津中学校(第24期、現・静岡県立沼津東高等学校)を4年生で中退。中学卒業検定試験に合格し、専門学校入学資格(専検)を取得。1928年早稲田大学高等学院文科に入学。早稲田では新稲会に所属。1930年早稲田大学文学部哲学科に進んだが、同年8月学資納入が困難なため中退[3]。
1930年2月頃にプロレタリア科学研究所(プロ科)所員となり、哲学部門の唯物弁証法研究会に所属。その責任者であった三木清の門下となる[3]。服部之総や加藤正らの三木批判に対し、三木清・山崎謙・秋沢修二「唯物論は如何にして観念化されたか」(『思想』第97号、1930年6月)を発表して三木を擁護したが、のちに秋沢修二「認識論におけるレーニンの弁証法」(『プロレタリア科学』1930年9月号)を発表して自己批判した[4]。三木哲学批判後、川内唯彦、永田広志らと同研究会の再建活動に従事[5]。1931年4月、川内唯彦、秋田雨雀、佐野袈裟美、真渓蒼空朗らとともに反宗教闘争同盟準備会(のち日本戦闘的無神論者同盟)を結成し準備委員[6]。同年に日本共産青年同盟(共青)に加盟[5]、さらに同年12月に日本共産党に入党[2]。1932年7月にプロ科関係者として[7]治安維持法違反で検挙され、1934年8月まで豊多摩刑務所に収監[2]。
1934年に出所後は唯物論研究会(唯研)に参加し、哲学、宗教、歴史の各部会で活動[5]。在日ソ連大使館に日本語教師兼翻訳員として勤務したが、1936年に2・26事件の「ソ連大使館事件」で検挙され、転向を条件に起訴猶予処分となった[2]。以降、「全体主義の合理的改造」(『政界往来』1939年7月号)など国策に迎合する論文を発表したり[2]、オトマール・シュパンの全体主義理論を紹介したりするなどの文筆活動を行った[5]。転向者の「思想善導」にあたった国民思想研究所に関係した[2]。在日ドイツ大使館にも勤務した[1]。1940年、岩崎昶、高沖陽造、本田喜代治、甘粕石介らとともに唯研事件(第二次検挙)で再検挙[5]。
敗戦後の1945年9月日本文化人連盟の発起人会を結成、同年10月同連盟常任理事。1946年2月民主人民連盟評議員[3]。1952年静岡県立静岡法経短期大学(のち静岡大学法経短期大学部)講師、1955年教授[2]。1974年静岡大学を退官、非常勤講師[1]。戦後は講座派を離れ、日本社会党に参加[7]。1956年社会主義協会に参加[2]。1961年社会主義協会本部参与、のち顧問[1]。1967年の向坂派分裂後は太田派協会顧問[2]。
人物[編集]
早川二郎、相川春喜、渡部義通らとともに、1930年代中葉におけるアジア的生産様式論争及び奴隷制論争の旗手、戦前日本のマルクス主義古代史学の草分けの1人であった[7][8]。当初は早川とともに日本古代史における最初の階級社会を国家封建主義とする立場に立っていたが、ソ連から最初の階級社会を奴隷制とするコヴァレフ説が紹介されるとこれに賛同し、早川・秋沢論争を行った。秋沢の主著『支那社会構成』(白揚社、1939年)はアジア的生産様式に基づくアジア的停滞論の代表作とされる。アジア的生産様式論・アジア的停滞論は日本の中国侵略を擁護・正当化するのに利用され、戦後の研究者の間では下火となった。ただし中国史学者の福本勝清によると、実際には『支那社会構成』はアジア的生産様式論を批判し、アジア的デスポティズムを強調した書である。福本は秋沢が最後までコヴァレフ説や歴史発展の五段階論に従っていたのは、これを内心では時局に屈していないという証にしていたのではないかと推測している[8]。
戦前に「赤旗」地下印刷局員だった林田茂雄は、秋沢について、「…三木清の高弟づらをして、「恩師」の名声を最大限に利用しては名を売ろうとしていた男だったが、一九三〇年の秋ごろから三木哲学への批判が高まりはじめたら、たちまち「いかに自分のは三木哲学とはちがっていたか」を弁明し…」などと述べている[9]。
元国労企画部長の秋山謙祐によると、秋沢は全国的に知られたマルクス経済学者で、社会主義協会太田派の顧問的存在だった。秋山が静岡で社会主義協会の組織づくりにあたっていた頃、頻繁に秋沢の自宅に通ったという[10]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『無神論』(三笠書房[唯物論全書]、1935年/久山社、1990年)
- 『西洋哲学史』(白揚社、1936年)
- 『東洋哲学史――哲学における東洋的特質の分析』(白揚社、1937年)
- 『現代哲學とファッシズム』(白揚社、1937年)
- 『日本精神とアジア自治』(秋津賢一著、アジア自治協会出版部[アジア自治運動叢書]、1937年)
- 『東洋思想』(三笠書房[三笠全書]、1938年)
- 『支那社會構成』(白揚社、1939年)
- 『科学的精神と全体主義』(白揚社、1940年)
- 『合理的全體主義』(白揚社、1940年)
- 『勞働の理念』(白揚社、1942年)
- 『東洋哲學史 上巻』(白揚社、1946年)
- 『西洋哲學史』(白揚社、1947年)
- 『東洋哲學史』(白揚社、1948年)
- 『現代思想解説』(旺文社、1951年)
- 『労働者の意識ともののみかた』(労働大学通信教育部[労働大学テキスト 活動家シリーズ]、1962年)
- 『ものの見方・考え方』(労働大学[労大新書]、1964年)
- 『マルクス主義哲学入門――人間疎外の解明』(社会問題研究所、1972年)
- 『労働者の哲学』(週刊タイムス社[社会タイムス新書]、1976年)
- 『科学的社会主義入門』(社会問題研究所、1978年)
- 『秋沢修二論述集――創造的マルクス主義の道』(すくらむ社、1987年)
共著[編集]
- 『現代宗教批判講話』(永田廣志共著、白揚社、1935年)
- 『日本古代史の基礎問題』(渡部義通、伊豆公夫、早川二郎共著、白揚社、1936年)
- 『日本歴史教程 第2冊 國土統一より大化改新まで』(渡部義通、伊豆公夫、三澤章共著、白揚社、1937年)
- 『日本歴史教程 第2冊 下』(渡部義通、伊豆公夫、三澤章共著、人民社、1947年)
- 『社会主義講座 第1巻 唯物史観』(川口武彦共著、労働大学、1965年)
訳書[編集]
- 『ナチスの哲學と經濟』(訳編、白揚社、1937年)
- オトマール・シュパン『全體主義の原理』(白揚社、1938年)
- ムッソリーニ『世界全體主義大系 7 共同體國家――資本主義から共同體國家へ』(白揚社、1939年)
- アルフレット・ローセンベルク等著『二十世紀の變革』(訳編、育生社弘道閣[新世代叢書]、1941年)
- シュパン『世界全體主義大系 11 社會哲學』(白揚社、1943年)
- マルクス、エンゲルス『社会民主主義綱領批判』(思索社[思索選書]、1949年)
出典[編集]
- ↑ a b c d e 20世紀日本人名事典「秋沢 修二」の解説 コトバンク
- ↑ a b c d e f g h i 原秀成『日本国憲法制定の系譜 第3巻 戦後日本で』日本評論社、2006年、573頁
- ↑ a b c 本村四郎「追悼・秋沢修二(秋津賢一)――生涯並びに唯物論者にのこされた現在的課題のことなど」『進歩と改革』479号、1991年11月
- ↑ 舩山信一『昭和唯物論史 上』福村出版、1968年
- ↑ a b c d e 高沖陽造述、太田哲男、高村宏、本村四郎、鷲山恭彦編『治安維持法下に生きて――高沖陽造の証言』影書房、2003年、176頁
- ↑ 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第11巻』吉川弘文館、1979年、777頁
- ↑ a b c 福本勝清「中国におけるアジア的生産様式論の変遷」『明治大学教養論集』479号、2012年3月
- ↑ a b 福本勝清「中国的なるものを考える(電子版第29回・通算第72回) 停滞論の系譜 2 秋沢修二再論」21世紀中国総研、2009年4月4日
- ↑ 林田茂雄『「赤旗」地下印刷局員の物語――わが若き日の生きがい』白石書店、1973年、81頁
- ↑ 秋山謙祐『語られなかった敗者の国鉄改革――「国労」元幹部が明かす分割民営化の内幕』情報センター出版局、2009年、83頁