浅利慶太
浅利 慶太(あさり けいた、昭和8年(1933年)3月16日 - 平成30年(2018年)7月13日)は、日本の演出家、実業家である。劇団四季創設者の1人で、劇団の運営・管理に当たる四季株式会社の代表取締役社長・会長・芸術総監督をつとめた。妻は女優の野村玲子(本名は浅利玲子)。
来歴[編集]
東京府(現在の東京都)出身。慶応大学に入学し、在学中の昭和28年(1953年)に劇作家の加藤道夫に傾倒して日下武史らと共に劇団四季を結成する。昭和29年(1954年)の第1回公演にフランスの劇作家・ジャン・アヌイ作の「アルデール又は聖女」を上演する。
昭和38年(1963年)の日生劇場(東京都)の開場に携わり、一躍注目を集めた。アメリカのブロードウェーに刺激を受け、いち早く海外のミュージカル作品の翻訳、上演に取り組んだ。昭和48年(1973年)に「ジーザス・クライスト=スーパースター」を初演し、日本の様式美を取り入れた斬新的な演出で高い評価を受けた。
劇団四季の運営会社である「四季」の社長や会長を歴任し、各地に設けた専用劇場でロングラン公演を行なう興行システムを確立した。「キャッツ」を30年以上にわたって上演し、「ライオンキング」は公演回数が1万回を超えて国内の演劇として最多記録を更新する。「美女と野獣」「オペラ座の怪人」などを上演してミュージカルを定着させた。オリジナルの作品も発表し、「ミュージカル李香蘭」をはじめとする「昭和の歴史3部作」や舞台「思い出を売る男」は劇団の代表作となった。
平成10年(1998年)の長野冬季オリンピックでは、開会式と閉会式の総合プロデューサーとして活躍した。教育再生会議の有識者メンバーなど政府関係機関の委員を多く務め、積極的な発言でも知られた。
晩年は劇団四季から離れて浅利演出事務所において演劇活動を行なう。芸術選奨文部大臣賞や菊池寛賞など受賞も多数ある。ただし紫綬褒章や文化功労者の内示などは自ら辞退し、民間の演劇賞しか受けなかった。
政治においても人脈が広く、石原慎太郎とは親友で昭和33年(1958年)に日米安全保障条約反対の若い日本の会を立ち上げた。石原が昭和50年(1975年)に東京都知事選挙に出馬したときは選挙参謀を務め、さらに田中角栄や中曽根康弘とも親交を持ち、特に後者のブレーンになるなど政財界に人脈を広げた。昭和58年(1983年)のアメリカ大統領・ロナルド・レーガンの来日の際には日の出山荘での日米首脳会談を演出するのに貢献した。
平成30年(2018年)7月13日午後5時33分、悪性リンパ腫のため、東京都港区の病院で死去した。85歳没。
主な受賞歴[編集]
- 1974年・1951年 紀伊國屋演劇賞
- 1976年 芸術選奨文部大臣賞
- 1984年 テアトロ演劇賞
- 1985年 アビアッティ賞 イタリア音楽批評家賞
- 1986年 経済界大賞特別賞
- 1993年 日本シェイクスピア賞シェイクスピア演劇賞
テレビ出演番組[編集]
家族[編集]
脚注[編集]
外部リンク[編集]
- 浅利演出事務所公式サイト
- 浅利慶太プロデュース(@asariproduce) - X(旧:Twitter)