津山三十人殺し
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津山三十人殺し(つやまさんじゅうにんごろし)は、1938年に岡山県苫田郡西加茂村(現在の津山市)で起こった大量殺人事件である。津山事件(つやまじけん)とも言う。
概要[編集]
結核のため軍隊に入れなかった青年都井睦雄が、彼を馬鹿にした者たちに復讐を試みたもの。ハチマキに懐中電灯を縛り付けた姿で、斧・散弾銃・日本刀を用いて人を次々に殺した。
2時間足らずで28名が即死し、5名が重軽傷を負う(そのうち12時間後までに2名が死亡)という、犠牲者数がオウム真理教の事件(27名)をも上回る日本の犯罪史上前代未聞の殺戮事件である。単独犯による短時間の大量殺人としては世界犯罪史上最大級であり、他には1982年の韓国の警察官禹範坤による57名(56,58,61名説もある)殺害、1996年にオーストラリアで起きたポートアーサー事件などがある。
事件は犯人の逮捕にはいたらず、現場から逃走した都井の自殺で幕を閉じた。
その他[編集]
- 一般には津山事件と呼ばれるが、正確には津山市近郊の西加茂村・貝尾集落で起きた事件である。この呼称は当時当該地域の所轄が津山署であったため便宜上ついた名称である。西加茂村はその後、市町村合併により加茂町を経て2005年に津山市に編入されている。
- 都井は事件を起こす以前にも猟銃を買い、毎晩のように山で射撃を繰り返していた。この時は警察に銃の存在がバレて押収されている。一説には、最初に猟銃を購入したのは、関係を求める際に相手の女性に拒ませないためで、村人を襲撃することを念頭においてのものではなかったとされている。また、徴兵されなかった都井に対して村人の迫害があり、護身のために銃を所持したとの見方もある。
- 都井は遺書の中で、この日に犯行を起こす決意をしたのは、以前都井と関係があったにもかかわらず他家に嫁いだ女性が、貝尾に里帰りしていたからとしている。しかし、この女性は実家に都井が踏み込んで来たときに逃げ出して助かり、逆に逃げ込んだ家の家人が射殺される場面もあった。他にもかねてから殺すつもりの相手が他所へ引っ越したり、他者の妨害にあったりして殺害することができなかったことと併せて、都井は「うつべきをうたず、うたいでもよいものをうった」として反省している。真っ先に祖母を手に掛けたのは、「後に残る不びんを考えてつい」と書かれている。
- 当時の識者の間では、警察の取締りの不備を強く批判するものが多かったが、中には、1913年(大正2年)にドイツ帝国で起こった「ワグナー事件」との類似性を指摘し、都井の自殺を惜しんで「ぜひとも医学上の研究対象にすべきだった」との声もあった。
- 横溝正史の小説『八つ墓村』(及びこれの映画版)は、この事件を参考に作られた作品である。冒頭部で語られる村人32人殺し事件は、本事件がモデルとなっている(小説は事件の後日談の形を取っており、本事件そのものが全体のモデルになっているわけではない。また、犯人の境遇はまったく違う設定である)。
- 『馬鹿が戦車でやって来る』も、この事件の影響を受けたという意見が見た人の一部であるようだが、事件とは展開が異なっていて実際に影響を受けたかは確認できない。本事件とは無関係で作られた可能性も高い。
- 津山市では、この事件のことを語るのはタブーとされている。
- 事件現場である貝尾集落は、周辺集落のなかでも一番山際にあたる部分にある。津山市から美作加茂を経由しアクセスすると、行重を通り抜けて南東の坂元集落へと至る。その道をさらに車で登っていくと途中に小さく貝尾と書かれた青い看板がある。そこが貝尾集落の入り口となる。その看板の先で道路が二股に分かれており、右が貝尾集落の中心部へ、左にいくと貝尾の集会所へと至る。いずれの道も貝尾部落を抜けると同時に車の通行が不可能な山道へと変わる。先の二股を右へ行くと左に折れる細い道と交わる交差点があるが、そこが貝尾集落の中心地である(この交差点を左にいけば、貝尾の集会所へと続く)。この交差点を中心にした付近の家々で津山事件は発生した。付近には、昔ながらの墓所が点在しており、多数の墓石の没年月日が“昭和十三年五月二十一日”と刻まれている。このことから津山事件による被害者の墓であることがわかる[1]。2015年春、倉見に廃屋となって残っていた都井の生家が取り壊されている。
凶器となった散弾銃について[編集]
ブローニング・オート5という反動利用式の半自動散弾銃で、補増弾倉により9連発仕様とされた猟銃らしい。
弾はスラッグ弾で、猛獣狩り用のホローポイント弾だったんだとか。