武藤三河守
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武藤 三河守(むとう みかわのかみ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。実名は不詳だが、信が最初についていることが記録から明らかになっている[1]。正室は大井信業の娘。
生涯[編集]
武田信玄の生母である大井の方の実家・大井家の出身で、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで兄の真田信綱と真田昌輝が戦死し、武藤家を継いでいた真田昌幸が本家に復すことになったため、武藤家を継いだという[1]。ただ記録上では永禄年間より武藤姓での活動が確認できるため、はじめは武藤の分家を継いでいて後に本家を継いだものと推測される[1]。武田勝頼の龍朱印奏者として活動し、天正3年(1575年)から天正5年(1577年)にかけて伝馬定など流通に関する朱印状を発行している[1]。天正6年(1578年)からは奥信濃の占領地における軍役の賦課を担当し、公事奉行を務めるなど、奉行すなわち官僚として活動している[1]。
一説に神右衛門常昭と同一人物と言われるが定かではない[1]。