樊建

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樊 建(はん けん、生没年不詳)は、中国三国時代から西晋にかけての武将政治家長元(ちょうげん)[1][2]

生涯[編集]

荊州義陽郡義陽県の出身[1]諸葛亮の時代からの蜀の武将で[2]251年校尉としてへの使者として赴くが、この時は孫権は重病で面会はかなわず、諸葛恪から「才能と見識で宗預に及ばないが、性質では勝る」と評されている[1]。蜀では侍中尚書令となり、諸葛瞻董厥と共に蜀の国政を担当した[1]宦官黄皓が政治の実権を掌握した際には黄皓と決して親しくはしなかった[1]

263年蜀滅亡後は・西晋に仕え、武帝に仕えて蜀を滅ぼしたものの罪に落ちた鄧艾の無実を訴えている[1]。西晋では給事中となった[3]

三国志演義』では諸葛亮の南征北伐に従い、蜀の滅亡後は劉禅と共に洛陽に移るところまで登場している[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g 小出『三国志武将事典』P387
  2. a b 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、319頁
  3. 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、320頁

参考文献[編集]