楊洪
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楊 洪(よう こう、? - 228年[1])は、中国の後漢末期から三国時代にかけての蜀の武将・政治家。字は季休(ききゅう)[1][2]。
生涯[編集]
益州犍為郡武陽県の出身[1]。最初は劉璋に仕えて諸郡の官吏を歴任する[1]。劉備の入蜀後は劉備の家臣となり、犍為郡太守の李厳の功曹に任命される[1]。しかし李厳の役所移転に異論を唱えて辞職しようとしたので蜀部従事に転任され、後に蜀郡太守に任命される[1]。また諸葛亮から高く評価されて蜀郡太守から益州治中従事に任命された[2]。
222年の夷陵の戦いで劉備が陸遜に大敗し、それを機に漢嘉郡太守の黄元が反乱を起こすと当時は皇太子だった劉禅を奉じてその鎮圧に尽力する[1]。223年に劉備が崩御すると劉禅に仕え、関内侯に封じられ、蜀郡太守に再任され、忠節将軍に任命され、さらに越騎校尉に任命された[1][2]。228年に死去。
『三国志演義』では劉備が益州を制圧した際に劉璋旧臣から新たに登用された人材の一人として登場[1]。劉備を皇帝に即位させよう尽力した重臣としても登場する[1]。