林員清
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林 員清(はやし かずきよ、? - 天正3年9月2日(1575年10月5日))は、戦国時代の武将。浅井氏、次いで織田氏の家臣。
生涯[編集]
近江国高島郡打下の土豪で、堅田衆と並んで琵琶湖の水運を握っていた有力者。当初は浅井長政に従っていたが、織田信長の勢力拡大により信長に転じ、朝倉義景と戦っている。
元亀2年(1571年)2月、近江佐和山城主・磯野員昌が信長に降ったため、その身柄を高島郡大溝へ護送する際に丹羽長秀より林に役目が任されている。この頃はまだ、浅井氏との関係も保たれていた可能性がある。
元亀3年(1572年)6月、信長より堅田衆と共に湖岸の放火作戦を命じられ、7月24日に明智光秀の指揮下において海津浦や塩津浦などを放火している(『信長公記』)。
元亀4年(1573年)2月、打下を浅井軍に攻められたが撃退。7月26日に信長は船で高島郡に渡り、郡内の浅井方を攻撃しているが、この際に打下に着陣している(『信長公記』)。
天正3年(1575年)9月2日、越前一向一揆討伐後の越前国北庄城の普請場において、信長の命令で誅殺された。理由は志賀の陣の際に密かに朝倉義景や浅井長政と内通していたことが露見したため、とある。ただし、これは5年前の事で、磯野の件を見ても信長が林の微妙な位置は理解していたはずであり、同時期に行なわれていた樋口直房や高宮右京亮の誅殺、磯野員昌の逐電、堀秀村の追放とかつての近江衆に対する粛清が強められていたことから、信長の近江支配強化における粛清の一環と見られている。