梟首
(晒し首から転送)
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梟首(きょうしゅ)とは、罪人や犯罪者の打ち落とした首級を晒す刑罰のことである。晒し首(さらしくび)、梟示(きょうじ)刑、獄門(ごくもん)とも呼ばれた。
概要[編集]
江戸時代では死罪より重い刑罰の一つであった。罪人は処刑に先立ち、市中引き回しに晒され、処刑場に向かった。目隠しをされて斬首されたあと、打ち落とされた首は三日三晩晒され、首は持ち去られないように番人を置いた。首以外の死体は埋葬は許されず、打ち捨てられたが、試し斬りにも用いられた。
対象[編集]
毒殺、毒薬を売ったもの。偽升、偽天秤を用いたものが対象となった。
明治時代[編集]
明治時代においても明治政府は最も重い刑罰として残し、明治7年(1874年)に佐賀の乱を引き起こしたかつての明治政府の功労者である江藤新平も反逆者として晒し首にされていた。明治12年(1879年)1月4日、明治政府は太政官布告を出して晒し首を廃止した。
切腹[編集]
武家社会における謀反人は晒し首にされるのが通例であったが、切腹の場合は武士としての尊厳が認められての死去であるため首が晒されることはない。