下関条約

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下関条約(しものせきじょうやく)とは、明治28年(1895年4月17日日本との間で結ばれた日清戦争の講和条約である。別名を馬関条約(ばかんじょうやく)、日清講和条約(にっしんこうわじょうやく)という。

概要[編集]

日清戦争は陸海ともに日本軍が圧倒的に優勢のまま、明治28年(1895年)3月14日に講和会議が開催されることになった。清国全権は李鴻章李経方、日本全権は伊藤博文首相と陸奥宗光外相であった。会議は山口県下関市の春帆楼で開かれ、3月20日から実質的に始められた。

ところが日本側は圧倒的優勢な戦況から、まずは講和条件の前に休戦条約の条件を話し合うことになった。日本側が清側に出した休戦の条件は余りに過酷で、そのため李鴻章は承諾しなかった。そんな中で3月24日李鴻章狙撃事件が発生して李鴻章が負傷した。この事件に伊藤ら日本政府首脳は狼狽し、慌てて清側に出していた休戦の条件を取り下げて無条件で即時承認に切り替えた。これは日本側の不始末で外国の全権大使が負傷したという不名誉な事態に、欧州列強が介入してくる危険性と世界の同情が清と李鴻章に向けられることを恐れてのこととされる。実際、李鴻章は負傷したので帰国しようとした。しかし、ここで帰国されて困るのは清よりむしろ日本なので、日本側は何とか引き止める必要性があり、その奔走に努めた結果、4月1日から講和会議が再開されることになった。

下関条約は4月17日に調印された。以下はその主な内容である。前文と本文11か条から成り立っている。

  • 清国は李氏朝鮮の独立を認めること。
  • 遼東半島台湾澎湖列島を日本に譲渡すること。
  • 賠償金2億両(テール。日本円でおよそ3億円)を支払うこと。
  • 欧米諸国間と同じような通商航海条約を日本と新たに結び、その実施まで清は日本に最恵国待遇を与えること。
  • 沙市重慶蘇州杭州の4都市を開市・開港すること。
  • 宜昌・重慶間、上海・蘇州、杭州間の内河航行権を認めること。
  • 開港市における商業・工業・製造業の経営を認めること。
  • 条約批准から3か月以内に日本軍は撤退し、条約を誠実に履行することの担保として、威海衛を占領すること。

この条約は圧倒的に日本側に有利なものだった。明治29年(1896年7月日清通商航海条約が締結されると、日清間は日本側圧倒的有利、清の不平等条約となり、また最恵国待遇の承認によって、日本は事実上列強の仲間入りをすることになった。

ただし、遼東半島の譲渡については4月23日ロシアドイツフランスによって三国干渉が起こり、これにより日本は遼東半島を清に返還して代償金を受け取ることになった。当時の日本に3か国を相手に戦う戦力など存在していなかったからである。

また、賠償金約3億6400万円うち、84.7パーセントは軍事費に当てられることになった。内訳は臨時軍事費が7896万円、陸軍拡張費が5680万円、海軍拡張費が1億3925万円、軍需生産の八幡製鉄所創立費が58万円、明治30年度臨時軍事費および一般会計繰り入れが321万円、軍艦水雷艇補充基金が3000万円であった。これにより、三国干渉もあって列強に追いつけ追い越せと軍備の拡張と近代化が陸海軍共に進められていくことになる。

残りの賠償金は皇室財産に回されたほかは、三基金(軍艦水雷艇補充基金・教育基金・災害準備基金)の正貨が日本銀行に預け入れられ、これを基礎にして金本位制が確立することになる。日本の金融市場が世界の金融市場と結びついて、外貨が盛んに導入されることになった。

一方、朝鮮はこの条約で、独立・富国の道を進むことはなく、むしろ清の後ろ盾喪失の事態となり、時の朝鮮王朝は事大の対象を清からロシアに乗り換え、日本とロシアが更に対立する火種を作った。

外部リンク[編集]