搦目城

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搦目城(からめじょう)とは、現在の福島県白河市藤沢山にかつて存在した日本である。別名を白川城(しらかわじょう)という。

概要[編集]

この城は鎌倉時代中期の建長2年(1250年)に、結城祐広によって築城された山城である。この結城氏は白河を支配したことから白河結城氏とも言われており、元々は下総国結城を出自とする豪族で、結城朝光源頼朝の家臣となって藤原泰衡討伐で貢献したことから、頼朝より白河を与えられて支配したのである。祐広は朝光の孫である。

祐広の子・結城宗広後醍醐天皇鎌倉幕府討幕運動に同調し、新田義貞鎌倉攻めに参加して鎌倉幕府を倒すのに貢献した。そのため、建武の新政下においては後醍醐天皇から重用され、宗広の息子の結城親光楠木正成らと並んで三木一草と称されて中枢で活躍した。宗広は親光とは別行動をとり、奥州に派遣された北畠顕家に同調して後醍醐天皇の皇子・義良親王(後の後村上天皇)を奉じて、足利尊氏と戦った。

栄華を誇った白河結城氏も、安土桃山時代に入る頃には衰退し、豊臣秀吉奥州仕置によって大名としては滅亡した。

この城は本丸跡を中心に曲輪、空堀、土塁があったとされ、城の搦手に当たる搦目に感忠銘碑があり、白河市の史跡に指定されている。搦目城の由来もここから来るものである。なお、この感忠銘は江戸時代後期の文化4年(1807年)に、内山重濃が建立した高さ8メートル、幅3メートルの碑であり、自然石にそのまま刻み付けられた磨崖碑という非常に珍しいものである。碑文は鎌倉時代から建武中興にかけて活躍した祐広・宗広父子の功績を讃えたもので、白河藩主の松平定信が自ら感忠碑の文字を書いて、藩士の広瀬典が文を書いたといわれている。

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