後藤光次
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後藤 光次(ごとう みつつぐ、元亀2年(1571年) - 寛永2年7月23日(1625年8月25日))は、江戸時代前期の江戸幕府の金座の主宰者。通称は庄三郎(しょうさぶろう)で、後藤家の初代である。
生涯[編集]
本来の姓は「橋本」という。豊臣秀吉に仕えて天正大判を鋳造した後藤光基(後藤徳乗)に弟子として従い、文禄2年(1593年)に秀吉に仕えていた重臣の徳川家康の要請を受けて秀吉の許しを得た上で関東に下向し、この際に光基の養子となって姓も後藤に改めたという。名前についても、光基から後藤家の通字である「光」を称することを許されたという。
家康は光次を重用し、関ヶ原の戦いに勝利した翌年に家康の命令を受けて銀座を設置。さらに家康に側近としての待遇を与えられて主に金座や銀座の支配から貨幣に関する全般を任される強大な権限を任された上、家康から朱印状の発給まで許されているほどである。大坂の陣で豊臣氏が滅亡した際には、金銀改めとして大坂城中に入って金を2万8060枚、銀を2万4000枚没収している。
家康の譜代の家臣ではなく、豊臣氏から転身した外様であるにも関わらず、このような異常な厚遇ぶりには家康の信任と、光次が家康の落胤である広世を養子にしていたためといわれる。広世の落胤説については『後藤庄三郎由来書』でわざわざ落胤と記録しているほどである。広世も江戸幕府から異常に厚遇されており、この落胤説を強める一因になっている。
晩年の光次は眼病にかかってほとんど盲目同然となったので、金座の支配人としての差配をすることは不可能になり、広世に家督を譲って隠居。寛永2年(1625年)に江戸で死去した。55歳没。