後藤広世
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後藤 広世(ごとう ひろよ、慶長11年6月24日(1606年7月28日) - 延宝8年3月16日(1680年4月13日))は、江戸時代前期の江戸幕府の金座の主宰者。通称は庄三郎(しょうさぶろう)。徳川家康の御落胤とされる人物である。
生涯[編集]
『後藤庄三郎由来書』によると、「初代の庄三郎(後藤光次)の妻の青山氏(大橋局)は家康の愛妾で、家康の子を懐妊したまま庄三郎に嫁いで、広世を産んだ」とある。このことから、家康の落胤とする説がある。
初代の庄三郎・光次は大坂の陣後に眼病を患ってほぼ盲目同然となったので、家督を広世に譲って隠居し、広世は2代目庄三郎として幕府の金座を差配した。なお、諱の広世は大老・酒井忠世から「世」の1字を与えられ、さらに元服も酒井氏の屋敷で行われるなど、いくら金座の支配人とはいえ厚遇されていることから、家康の御落胤という根拠を強める一因になっている。
晩年には小斎と号し、延宝8年(1680年)に75歳で死去した。広世には男子が無く、養子の良重が3代目の庄三郎を継承した。