張衡 (道教)
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張 衡(ちょう こう、? - 177年)は、後漢末期の五斗米道の2代目指導者。字は霊真(れいしん)[1]。道教の一派である五斗米道の創始者・張陵の子。母は雍氏(または孫氏)。妻は盧氏。姉は張文姫。妹は張文光、張賢、張芝。弟は張権。子は張魯、張衛、張愧、張徴。娘は張玉蘭。
生涯[編集]
沛国豊県(現在の江蘇省徐州市豊県)の出身[1]。父の死後に第2代目の教主となる[1]。裴松之は『典略』において五斗米道の創始者である張脩が張衡の間違いとしているが、この場合だと張魯が張衡を殺したことになる。『典略』の張脩と「張魯伝」で出てくる張脩が同姓同名の別人の可能性もあるが、『張魯伝集解』では裴松之の指摘を誤りとしている。張衡が177年に死去すると、張魯が第3代の教主となった。
『三国志演義』では張魯の父として名前が登場し、五斗米道のお布施などについて紹介されている。