閻圃

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閻 圃(えん ほ、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家武将。子は閻璞。孫は閻纉

生涯[編集]

益州巴西郡安漢県(現在の四川省南充市)の出身[1]張魯配下の功曹で、住民が地中から王印を掘り当てて張魯に献上した際に部下らが張魯に漢寧王の尊号を名乗ることを望んだが、閻圃は反対して張魯を思いとどまらせた[1]215年曹操漢中郡に侵攻して陽平関が陥落し、張魯が曹操に降伏しようとすると「今、追い詰められて降伏したのでは評価は小さくなるから、巴西に逃れて臣下の礼を取ったほうが多大に評価される」と進言し、この際に張魯は財宝を焼かず封印して南鄭に去り、曹操に高く評価された[1]。張魯が降伏すると、閻圃は陪臣ながら曹操から高く評価を受けて列侯に取り立てられ、馬超側室であった董氏を与えられる。220年に閻圃は建節将軍平楽亭侯の地位にあり、曹操の息子の曹丕に帝位につくように薦めている[1]。その結果、曹丕が文帝として即位するとその在位年間に爵位と領地が加増された[1]。没年はそれから10年余り後とされているため、曹丕の死後、曹叡の時代まで生きていた事になる[1]

三国志演義』では第59回で初登場し、史実と異なり張魯に対して益州を支配して王位を名乗るように進言する[1]龐徳の起用を進言したり、楊松の讒言で龐徳が追い詰められた際には弁護したり、楊松の勧めで張魯自ら出撃しようとした際には諌めたりなど、基本的には良識を持った参謀として描かれている[1]。降伏後は曹操から列侯に封じられるが、以後は物語に登場しない[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i 小出『三国志武将事典』P165

参考文献[編集]