張既
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張 既(ちょう き、? - 223年)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての魏の武将・政治家。字は徳容(とくよう)[1][2]。子は張緝・張翁帰。孫は張藐・張皇后(曹芳の皇后)。
生涯[編集]
司隸左馮翊高陵県の出身[1][2]。最初は郡の小役人から高官を歴任し、茂才に推挙されて曹操が司空の時に招聘されて新豊県の令となる[1][2]。郭援や高幹の反乱鎮圧[1]、2度に渡る涼州の馬騰説得による成功など曹操の勢力拡張において多大な貢献をする[2]。馬超の反乱でも活躍して関中平定に功績を立て、戦後は京兆尹に任命されて流民を招いて荒廃した県や村の復興に尽力した[1][2]。その後は雍州・涼州という異民族の影響力の根強い地域を10数年にわたって統治し、武都郡の氐族を蜀の劉備に味方させぬように移住させたり[2]、反乱を悉く鎮圧したりした[1]。223年に死去し、明帝の時代に粛侯と諡された[1]。
『三国志演義』では第59回で夏侯淵の推挙を受けて京兆尹に任命されて長安を守備しているのみである。