山鹿素行

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山鹿 素行(やまが そこう、元和8年8月16日1622年9月21日) - 貞享2年9月26日1685年10月23日))は、江戸時代前期の日本儒学者軍学者山鹿流兵法及び古学派の祖である。高祐(たかすけ)または高興(たかおき)、義矩(よしのり)とも。は子敬、通称は甚五右衛門。因山、素行とした。長男に政実(まさざね)、次男に高基(たかもと)がいる[1]

陸奥国会津福島県会津若松市)にて白河浪人(関氏)・山鹿貞以(山鹿高道とも[2])の子として本一ノ丁の町野邸にて生まれる。承応元年(1652年)に赤穂藩浅野家に君臣の礼を為す(ただし素行は、赤穂に7か月程度しか滞在せず江戸に戻っている[3])。承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の二の丸門周辺の縄張りがよろしくないと助言したが、浅野長直に受け入れられなかったともいわれる(のちに文久2年(1862年)12月9日、西川升吉ら13名が赤穂城に攻め入り、赤穂藩家老・森主税(可彝)を二の丸門近くにて斬殺する(『文久赤穂事件』))。これにより万治元年(1660年)には、浅野候からの処遇に不満があり自分から致仕し去る[4]。また、「内匠頭(長直)は不要な家臣を二百人余も雇い[5]、藩財政を圧迫し高年貢にて領民を苦しめた[6]。しきたりや慣習にこだわらず、そしりを受けた」との批判も書き残している。

寛文6年(1666年)に『聖教要録』が朱子学批判であることを理由に播磨国赤穂藩へ配流となり、大石良重宅の一隅で蟄居させられた。配流地では酒を飲めず、肉も食べられなかった。何より敬愛する父の墓参もできず辛かったと回想している(『山鹿語類』第四十四「枕槐記」)。日記には涙を流したとも書かれ、「我れ、配所に於て朽ち果て候」と絶望した記述もある(『配所残筆』)。この時期に『武家事紀』を執筆。

延宝3年(1675年)6月15日、許されて江戸へ戻る。赦免された後に最初に会った諸侯(大名・旗本)は吉良義央である。この際に素行は漢詩を詠み 喜びを表現している[7]

貞享2年(1685年)8月9日、病に臥す。松浦鎮信津軽信寿らの見舞いを受ける(素行の子らは両家に仕える)。同年、9月26日に死去。墓所は東京都新宿区弁天町1番地の宗参寺曹洞宗)にある。法名は月海院殿瑚光珊居士[8]

思想[編集]

  • 「万世一系の天皇陛下を中心に、仁政と平和が続く本朝(日本)こそ中華(中国という意味でなく、聖賢の国・理想の国の意)なり」(『中朝事実』)
  • 朝廷を重んじて武家をんずるは、往古の式、君臣の礼たり」(『山鹿語類』巻十五・臣道)
  • 「君主と家臣は他人の関係にして縁(ゆゑん)あらず。知行や給金により従うのみ。君主のためにを棄つるは愚かである」(同)
  • 「君が無道にして、天子命じて罰せられなんは、を報ゆるの義あるべからず」(『山鹿語類』巻十四・仕法)
  • 我が家のことばかり思うは、人の顔をしてるといえどに似たり」(『武教小学』器物)
  • は日中眼のある大場にて討つべし。闇を頼りに多勢にて押し入るは夜盗に等しい」(『山鹿語類』巻十六・仇法)
  • 「主君と天の義が異なりし折は、家臣が主君を討つべし。此れ忍びがたきは臣自ら去るべし。士は二君に仕えるべし」(同)
  • 吝嗇は罪悪である。賢人たるものは出し渋るより、多く人に与えるのが宜しい。士が財物を与えなければ来るもの無し。縁なき眇たる矮人が来るのみ」(『武教小学』与授)
  • 女色にふけるは誠を失する邪悪なり。之を貪り之を淫するに至るは、情の過溢流蕩にして以て天下古今に及ぼすべからず。女色多きは精神を病み、礼を無くし争いを生む。大きな戒めとすべし」(同、色欲)
  • 「士は怒りにまかせ行動すべからず。憤怒の心は身を亡ぼす」「例ひ君たりとも道に則って自身を制御できぬ者、君にあらず」(『武教全書』、巻五』)

詩歌[編集]

  • 延宝3年(1675年)九年に及ぶ配流から放免され、吉良義央らから祝福された時の漢詩[9]

情(なさけ)温(あたた)かに善人の傍(かたわ)らに在(あ)るが如し。
評(はかり)細(こま)やかに見る、君子(きみこ)の光を輝かすに似たり。
万物平行(ならびゆき)す、静と濁と。
古今共立す弱と彊(きょう)と

  • 延宝8年(1680年)正月7日、庶子・万介(のちの山鹿高基)に講義した際に詠んだ歌。初句を「初春(はつはる)の」としているものもある。

立春(たつはる)の あさく見初(みそ)むる 山鹿派(やまがは)の[10] ながれは四方(よも)の 海にみちけり

子孫[編集]

直系、血縁者で山鹿流を受け継いだのは、津軽藩の山鹿嫡流と女系二家、平戸藩の山鹿傍系と庶流男系の両氏である。

弘前藩(嫡流)[編集]

 山鹿素行-山鹿政実[11]-山鹿高豊-山鹿高直-山鹿高美-山鹿高備-山鹿高補(素水)-山鹿高幸-山鹿高敏-山鹿高朗[12]

  • 津軽藩主の津軽信政やその後見人である旗本(黒石藩)の津軽信英は素行に師事し、津軽藩は1万石をもって素行を招聘しようとしたが実現せず、代わりに素行の子の政実が筆頭家老になった。政実はのちに津軽姓を名乗ることを許され、家老職家となり、6代後の子孫に山鹿流兵学者の山鹿素水が出ている。
  • 素行の嫡男・政実に学んだ津軽政兕赤穂事件の直後に、真っ先に杉山成武石田三成の玄孫)政実はじめ家臣らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の手当に協力した。

平戸藩[編集]

 山鹿素行-山鹿高基-山鹿高道-山鹿高賀=山鹿高忠[13]-山鹿高元-山鹿高満-山鹿高明=山鹿高招[14]-山鹿高通

  • 素行が平戸藩松浦鎮信と親しかった縁で、庶子の山鹿万助(高基)が平戸藩に仕えた(平戸山鹿氏)[15]

 山鹿平馬(義行)-山鹿貞行-山鹿義甫-山鹿一学-山鹿亀三郎-山鹿平馬(初代の襲名)-山鹿平馬-山鹿伊織

  • 弟の山鹿平馬(義昌)も松浦家に召し抱えられ、後に家老となっている。

遺品[編集]

  • 素行直筆の吉良流作法書『吉良懐中抄』 - 松浦鎮信に献上し平戸藩史料文庫に現存。
  • 素行直筆の山鹿流兵法書『楠正成一巻之書』 - 上杉綱憲に献上し上杉家米沢城博物館に現存。
    • 配流時期に著した『配所残筆』などは赤穂藩により処分され、直筆のものが残っていない。

脚注[編集]

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  1. 山鹿光世『山鹿素行』錦正社 1999年(平成11年)12月 ISBN 978-4-7646-0251-9
  2. 斎藤『山鹿素行』1頁、田制『山鹿素行』1頁『山鹿温泉誌』40頁
  3. 1653年9月25日-翌5月5日。
  4. 「内匠頭所に九年此れ有り、加増まで申し被可り候由、利禄の望みにて御留め候え共、知行断り申し上げ候」(山鹿素行『配所残筆』)
  5. 士分知行は256人3万8千石。米・雑穀・塩の実高7万石の年貢4万5千石の八割に達する。(『赤穂市史』第二巻、149頁)
  6. 赤穂藩の実高は米5万石、ほか2万石で、年貢は米が六公四民、雑穀と塩は七公三民。『土芥寇讎記』巻二十巻・第五項(東京大学史料編纂室)
  7. 多田顕「武士道の倫理 山鹿素行の場合」(麗澤大学出版会、2006)336p
  8. 新宿・史跡文化財散策マップ 宗参寺 山鹿素行の墓 牛込氏の墓 - 新宿区観光協会(2024.5.16access)
  9. 「山鹿素行年譜」(延宝三年八月六日)
  10. 「山川の」または「山側の」との掛詞。
  11. 母は素行の正室・浄智院。興信は妹の婿で高豊の継父。
  12. 津軽家文書より「山鹿家系図」
  13. 素行の弟・平馬の玄孫。
  14. 山鹿平馬家・山鹿伊織の弟。
  15. 堀勇雄『山鹿素行』42頁

関連項目[編集]