山中康豊

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山中 康豊(やまなか やすとよ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将後北条氏の家臣。仮名は彦十郎、官途は修理亮、受領名は上野介を称した[1]

生涯[編集]

父は山中修理亮。後北条家に仕えて相模三浦衆筆頭、評定衆を務めた[1]。諱の康は北条氏康からの偏諱と見られる。

史料上では弘治元年(1555年)11月に初見され、永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』では三浦衆筆頭として、知行高170貫文を所領としているのがわかる。居城は三浦郡支配の三崎城と見られる[1]

永禄9年(1566年)8月の段階では評定衆にも列している。これは三浦郡限定のものと見られているが、それでも後北条家でかなり枢要な役割を担っていたことがわかる[1]

永禄10年(1567年)に三浦郡支配の責任者が北条氏規に変更されているが、康豊はそのまま三浦衆筆頭、領域支配の担い手として氏規付の家臣になっている。天正11年(1583年)7月の史料を最後にその行方は確認できない[1]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. a b c d e 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P218