安芸家友
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安芸 家友 あき いえとも | |||||||||||||||||||
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安芸 家友(あき いえとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・実業家。土佐藩の家臣で御用紙方役、幡多郡代官などを歴任した[1]。
略歴[編集]
土佐国安芸城主・安芸国虎の子と伝わり、永禄12年(1569年)に長宗我部元親に敗れて国虎が自殺した際、家友は土佐郡成山村に落ち延びて、ここで武士を辞めて帰農。伊予国出身の彦兵衛という人物から修善寺紙の製法を学んだ。後に七色紙製造を自ら考案して成功を収め、それを長宗我部氏改易後に土佐藩主となった山内一豊に献上し、一豊から御用紙方役と幡多郡の代官職を与えられた。このため、土佐紙中興の祖と謳われる[1]。
生年が慶長2年(1597年)とされており[1]、この場合は永禄12年(1569年)に自殺した国虎の子として全く計算に合わない。没年が寛文10年(1671年)なので[1]、国虎が自殺する前後に生まれたとしても100歳を過ぎているため、国虎の子とは考えにくく、近親者か孫の可能性がある。また、慶長2年生まれの場合、慶長10年(1605年)に没した一豊に会ったとはとても考えにくく、謎の多い人物である。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]