安芸家友

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安芸 家友
あき いえとも
改名 三郎左衛門(通称)
性別
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生年月日 不詳
死没日 寛文11年(1671年10月
肩書き 製紙業の実業家で土佐藩の御用紙方役、幡多郡代官
国籍 日本国旗.png日本
安芸国虎?
家族構成 千寿丸?、家友

安芸 家友(あき いえとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将実業家土佐藩家臣で御用紙方役、幡多郡代官などを歴任した[1]

略歴[編集]

土佐国安芸城主・安芸国虎の子と伝わり、永禄12年(1569年)に長宗我部元親に敗れて国虎が自殺した際、家友は土佐郡成山村に落ち延びて、ここで武士を辞めて帰農伊予国出身の彦兵衛という人物から修善寺紙の製法を学んだ。後に七色紙製造を自ら考案して成功を収め、それを長宗我部氏改易後に土佐藩主となった山内一豊に献上し、一豊から御用紙方役と幡多郡の代官職を与えられた。このため、土佐紙中興の祖と謳われる[1]

生年が慶長2年(1597年)とされており[1]、この場合は永禄12年(1569年)に自殺した国虎の子として全く計算に合わない。没年が寛文10年(1671年)なので[1]、国虎が自殺する前後に生まれたとしても100歳を過ぎているため、国虎の子とは考えにくく、近親者か孫の可能性がある。また、慶長2年生まれの場合、慶長10年(1605年)に没した一豊に会ったとはとても考えにくく、謎の多い人物である。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d 「日本史人物辞典」(日本史広辞典編集委員会編、山川出版社2000年。P17

参考文献[編集]