宇多頼忠

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宇多 頼忠
うだ よりただ
別名 尾藤(旧姓)
性別
時代 安土桃山時代
生年月日 不詳
死没日 慶長5年9月17日1600年10月23日
肩書き 豊臣氏家臣
国籍 日本国旗.png日本
子供 頼重皎月院石田三成正室)[1]

宇多 頼忠(うだ よりただ)は、安土桃山時代武将大名大和河内の内に1万3000石を領した[2]豊臣氏家臣石田三成の舅に当たる。

経歴[編集]

旧姓を尾藤といい、信濃を本貫とする一族とされ、羽柴秀吉織田信長に仕えていた頃から既にその家臣にあった尾藤知宣は実兄とされるが、系譜や出自については定かではない。ただ、秀吉が信長により近江長浜城主に任命され、竹生島堂社復興を推進した際の天正5年(1577年)に、頼忠もその寄進をしていることが確認できるので、秀吉に古くから仕えていた家臣であったことは確かである[2]

信長没後、秀吉が天下人としての地位を固めていく諸戦役に参加。紀州攻めに参加した後、秀吉の弟の秀長が紀州国主になるに伴い、その家臣となった。しかし、天正15年(1587年)に兄とされる知宣が九州征伐の際に失態ありとして秀吉により改易されたため、頼忠はこの際に尾藤から宇多に改姓したと推定されている[2]

秀長とその跡を継いだ秀保が死去して大和大納言豊臣家が断絶すると、秀吉から独立大名に取り立てられて秀吉に仕えるようになった。慶長3年(1598年)1月、蔚山城救援のために朝鮮半島に渡海する計画で日本軍の武将の中に本田因幡守多賀秀種らと連名で秀吉から指示を受けており、大和大納言豊臣家断絶後もその旧臣の一員としてまとまった集団として見なされていたようである[2]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成の舅に当たることから西軍に属した。石田正継正澄父子や長谷川守知、そして自分の息子の頼重と共に三成の居城・佐和山城を守備した。しかし、同年9月15日の関ヶ原本戦で西軍は壊滅して三成は行方不明となり、佐和山城も東軍小早川秀秋田中吉政脇坂安治らに攻撃され、長谷川が東軍に内通したことから落城は決定的となり、9月17日に頼忠は息子の頼重、さらに石田一族と共に自害した。宇多氏は改易となり、子孫の動向は知られていない[2][3]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. 真田昌幸の正室も頼忠の娘とされているが、系譜関係などは明らかではない。
  2. a b c d e 渡邊大門「関ヶ原合戦人名事典」P323
  3. 渡邊大門「関ヶ原合戦人名事典」P324

参考文献[編集]