宇多頼忠
宇多 頼忠 うだ よりただ | |||||||||||||||||
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宇多 頼忠(うだ よりただ)は、安土桃山時代の武将・大名。大和・河内の内に1万3000石を領した[2]。豊臣氏の家臣で石田三成の舅に当たる。
経歴[編集]
旧姓を尾藤といい、信濃を本貫とする一族とされ、羽柴秀吉が織田信長に仕えていた頃から既にその家臣にあった尾藤知宣は実兄とされるが、系譜や出自については定かではない。ただ、秀吉が信長により近江長浜城主に任命され、竹生島堂社復興を推進した際の天正5年(1577年)に、頼忠もその寄進をしていることが確認できるので、秀吉に古くから仕えていた家臣であったことは確かである[2]。
信長没後、秀吉が天下人としての地位を固めていく諸戦役に参加。紀州攻めに参加した後、秀吉の弟の秀長が紀州国主になるに伴い、その家臣となった。しかし、天正15年(1587年)に兄とされる知宣が九州征伐の際に失態ありとして秀吉により改易されたため、頼忠はこの際に尾藤から宇多に改姓したと推定されている[2]。
秀長とその跡を継いだ秀保が死去して大和大納言豊臣家が断絶すると、秀吉から独立大名に取り立てられて秀吉に仕えるようになった。慶長3年(1598年)1月、蔚山城救援のために朝鮮半島に渡海する計画で日本軍の武将の中に本田因幡守、多賀秀種らと連名で秀吉から指示を受けており、大和大納言豊臣家断絶後もその旧臣の一員としてまとまった集団として見なされていたようである[2]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成の舅に当たることから西軍に属した。石田正継・正澄父子や長谷川守知、そして自分の息子の頼重と共に三成の居城・佐和山城を守備した。しかし、同年9月15日の関ヶ原本戦で西軍は壊滅して三成は行方不明となり、佐和山城も東軍の小早川秀秋や田中吉政、脇坂安治らに攻撃され、長谷川が東軍に内通したことから落城は決定的となり、9月17日に頼忠は息子の頼重、さらに石田一族と共に自害した。宇多氏は改易となり、子孫の動向は知られていない[2][3]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]