大田黒重五郎
大田黒 重五郎(おおたぐろ じゅうごろう、慶応2年6月15日(1866年7月26日) - 昭和19年(1944年)7月28日)は、企業家。元芝浦製作所専務取締役、元九州電気軌道社長。子に音楽評論家の大田黒元雄がいる。箱根水力電気、鬼怒川水力発電、九州水力電気の設立に関与した[1]。
経歴[編集]
1866年7月26日(慶応2年6月15日)、護国寺に近い江戸音羽(現東京都文京区音羽)に生まれる[2]。父親は徳川幕府の御家人の小牧辰蔵、母親は神田乾物屋の娘の小牧喜久である[3]。7人兄弟の下から2番目(4男)であった。明治維新後はいわゆる没落士族となり一家で静岡県萬野ケ原高原(現静岡県富士宮市万野原新田)に帰農した。
後に沼津に移住して沼津の集成舎(現沼津市立第二小学校)を卒業した。明治15年(1882年)に沼津の旧制中学を卒業した。その後、東京に出て神田一橋の大学予備門(現東京大学)を受験したが、当時、英語の試験官であった高橋是清に落とされる。そこで向かいにあった東京外国語学校露西亜語科に入学する。このときの友人に二葉亭四迷がいる。卒業の半年前の明治19年(1886年)に、東京外国語学校は廃校となった。明治19年(1886年)、校長・矢野二郎の誘いで東京商業学校(現一橋大学)に入学し、1890年(明治23年)に卒業した[3]。卒業後の1891年(明治24年)に矢野二郎の紹介で太田黒惟信の養子となり、次女と結婚した。
明治27年(1894年)、28歳で三井元方に入社し、しばらくして三井物産に配属され、社長の益田孝に商売のイロハを教わる。大阪、九州支店を経て、明治32年(1899年)当時は経営の危機にあった芝浦製作所(現東芝)の主事として、再建にあたり、翌年の下期から黒字化した[4]。明治37年(1904年)、芝浦製作所専務取締役に就任した。明治39年(1906年)、箱根水力電気(後の横浜共同電灯)の設立に関与した。明治43年(1910年)、鬼怒川水力発電(現小田急電鉄)の創設に関与した。明治44年(1911年)、九州水力電気(現九州電力)の創設に関与した[5]。大正8年(1919年)6月、芝浦製作所取締役を退任した。
昭和5年(1930年)10月、再建のため第3代九州電気軌道社長(現西日本鉄道)に就任し[6]、昭和10年(1935年)には業績回復し、復配したため69歳で社長を退任した。昭和19年(1944年)7月28日、逝去する。79歳没。
人物[編集]
- 日本の水力発電の先駆者と評価される。
- 旧太田黒重五郎邸は現在は大田黒公園となっている[7]。
- 親友の二葉亭四迷の作品『浮雲』の主人公のモデルは若き日の大田黒重五郎といわれるが、文献上の根拠は明確ではない。