大田黒惟信
大田黒惟信(おおたぐろ これのぶ、文政10年(1827年)6月 - 明治34年(1901年)4月22日)は、肥後熊本藩士。明治時代の政治家である。元熊本県会議長。大田黒重五郎の義父。通称は亥和太。
1827年(文政10年)6月、肥後藩の士族に生まれる。時習館、横井小楠塾で学ぶ。長崎に赴き、黒船を模写し、船長の許可を得て船の寸法を測定した。明治元年( 1868年)11月19日、新政府は函館の榎本軍の討伐令を発し、征討総督に清水谷公考(公家)、陸海軍参謀に山田顕義(長州)、参謀に黒田清隆(薩摩)、総督参謀に大田黒惟信(肥前)を任命した[1]。4月16日、山田顕義の要請により黒田清隆・大田黒惟信ら第3軍3000人が江差に到着し、木古内口・二股口・松前口に進軍した。大田黒惟信は2,500名を率いて本道、海岸、山上の三方から矢不来に迫った。5月17日、榎本武揚は、新政府軍の陸軍参謀黒田清隆・海軍参謀増田明道に、降伏を申し入れ、函館戦争は終結した。大田黒は恩賞として170石を賜った[2]。
1870年(明治3年)10月、肥後藩少参事に就任し、次いで佐賀県令に就任する。明治4年(1871年)11月28日、荘村省三による「熊本県参事大田黒惟信転任辞退ニ関スル偵察報告書」が残されている[3]。 1875年(明治8年)5月、大審院判事となる。辞任後は熊本県会議長となる。熊本市内の本山村に洋風の住宅を構えたところ、怨嗟を買い、1876年(明治9年)に神風連の乱のとき、敬神党の吉永秀雄、浦楯記、坂本重孝、平川景逝、行藤宗雄、平川熊八の6名が大田黒邸を襲い[4]、家に放火したが、大田黒とその妾の澄子は脱出した。西南戦争のとき、西郷軍に襲われるおそれがあったため、山田顕義の説得もあって東京に移住した[2]。
西南戦争により鉄道の必要性を痛感した大田黒惟信は、岩倉具視などの華族に相談し、明治14年(1881年)11月に日本鉄道会社の設立許可がおりた。社長を勧められたが断り、理事・倉庫課長に就任した。明治26年(1893年)の日本全国諸会社役員録によれば、社長は小野義真、大田黒惟信は検査委員(副社長と理事委員の間の序列)となっている。[5]。明治28年の日本全国諸会社役員録では理事委員となっている。社長、副社長、理事委員、検査委員と序列が入れ替わっている[6]。
1901年(明治34年)死去する。享年75。