吉田家政
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吉田 家政(よしだ いえまさ、天文7年(1538年)‐寛永2年7月7日(1625年8月9日))は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。後に豊臣氏を経て徳川氏に仕えた。
略歴[編集]
諱は家隆(いえたか)、定政(さだまさ)、家澄(いえずみ)とも。官途は右京進、主水正。祖父は吉田家久。父は吉田家次。
祖父や父と共に織田信長に仕える。本能寺の変で信長が横死するとその次男・織田信雄に仕え、高御堂の内130貫文を知行した。天正14年(1586年)の検地の後は228貫文余になっている。
天正18年(1590年)、信雄が東海地方への移封を拒否したことにより豊臣秀吉によって改易されると、秀吉に仕えて近江国愛知郡島河村に230石の知行を与えられる。『太閤記』によると、天正20年(1592年)7月、秀吉の馬廻に列して朝鮮出兵における名護屋城在陣に参加している。
秀吉の死後は徳川家康に仕え、旧領高御堂の内から251石の知行を与えられた。寛永2年(1625年)7月7日に88歳という高齢で死去。