参州長篠戦記
参州長篠戦記(さんしゅうながしのせんき)とは、長篠の戦いに関する史料である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
『四戦紀聞』の中にある軍記である。そのため、成立年代と著者は同著と同じである。
内容[編集]
天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いについて、徳川家康を主人公として記した軍記である。
天正3年(1575年)4月、武田勝頼の甲府出陣から始まる。5月1日に長篠城を包囲し、家康は織田信長に援軍を要請。しかし信長は色よい返事を出さず、そのため家康はならば勝頼と和睦して尾張国に攻め入ると脅迫し、遂に信長は出陣した。
奥平信昌は史実では長篠の時点で21歳だが、この著では24歳とされている。長篠城が攻撃されて危機に陥ったので、鳥居強右衛門(諱は勝高とされている)を使者として岡崎城に派遣。鳥居は援軍の知らせを受けて長篠城へ引き返すが、途中で武田方に捕らえられ、勝頼から偽情報を叫ぶように命じられるが応じず、磔にされる。信長は長篠に二重三重の空堀を掘り、土居を築いて虎口を設けたとされている。一方、武田方は信長の援軍が近づいていることから対策軍議を開き、多くの老臣が慎重策を述べる中、長坂釣閑斎は信長の家臣・佐久間信盛の内通と裏切りの約束を理由に強攻策を主張。勝頼も「御旗楯無」と叫んで、武田方は強攻策で決定する。
一方、織田方では酒井忠次が信長に鳶ヶ巣山城の攻撃を進言。しかし信長は激怒して却下し、軍議の後に酒井を密かに呼び出して鳶ヶ巣山城攻撃を命じた。鳶ヶ巣山城が落ちたことで退路が断たれた武田軍は、織田徳川連合軍の陣地に対して強攻を開始。21日[注 1]の卯の刻から午の終刻まで戦い、武田軍は総崩れとなる。多くの老臣は戦死し、勝頼は武田家相伝の旗を捨てて落ち延びるほどであった。
22日に信長は論功行賞を行ない、家康には今後の武田家攻撃を約束して岐阜城に帰った。勝頼は高坂晴久[注 2]がいる海津城に入ったとされている。