八甲田雪中行軍遭難事件

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八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、明治35年(1902年1月23日青森県で発生した事件である。199名が死亡するという大惨事となり、この事件を基にした作品は多く、青森市には八甲田山雪中行軍遭難資料館という事件に関する資料などを展示している博物館も存在する。この行軍の計画立案者は神成文吉大尉である。

概要[編集]

日清戦争に勝利した日本であったが、ロシアを中心とした三国干渉にあって遼東半島に返還せざるを得なくなった。日本では軍民問わずにロシアに対する怨嗟の声が高まり、軍部はロシアを仮想敵国に定めた。そして、陸奥湾が封鎖され、ロシア軍が青森県の八戸付近に上陸したと想定し、八戸方面への行軍と物資輸送が可能か確かめるため、八甲田越えを試みることになった。これは対ロシア戦を想定した訓練であった。

明治35年(1902年)1月23日早朝、当時、八甲田は猛吹雪であるにも関わらず、青森歩兵第5連隊の大隊210名は青森市の兵営を出発した。途中、同行していた軍医が天候不良を理由に行軍の中止を申し入れるが、将校の間で結論が出ず、下士官らの意見を汲んだ上で行軍を続行。そして、歴史的大寒波により遭難となり、199人が結果的に死亡することになった。その多くは岩手県宮城県の出身者であった。アイヌ民族を含めた捜索隊が、最後の遺体を収容したのは5月下旬だったという。これだけの大被害が出た理由として、単なる天候不良だけではなく、風への対策不足や方向を見失って雪上で起こした火も消えて、身体を温めるための足踏みなど体力を消耗して次々と隊員が死に至ったと見られている。

これに対して、弘前歩兵第31連隊は同時期に案内人を雇って八甲田を越え、犠牲者を出すことなく38名が生還したという。この隊は八甲田の寒さに慣れていた上、おにぎりを腹に巻いて凍結を防ぐなど、経験に基づく対策をとっていた。しかも、この隊では隊員2名を途中帰還させたりしていた。いわゆる、経験の差と指揮官の力量の差が両隊の差を分けたといえる。

戦後新田次郎により小説「八甲田山死の彷徨」、さらに昭和52年(1977年)に高倉健の主演で映画「八甲田山」が上演された。

外部リンク[編集]