八田藩
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八田藩(はったはん/やつたはん)は、江戸時代中期から後期にかけて伊勢国員弁郡に存在した藩。別名は東阿倉川藩(ひがしあくらがわはん)。藩庁は八田陣屋。藩主家は譜代大名の加納氏。現在の三重県四日市市東阿倉川に存在した。
概要[編集]
紀伊藩主・徳川吉宗に仕えていた加納久通は、享保元年(1716年)に吉宗が江戸幕府の第8代征夷大将軍に就任すると、それに従って吉宗の側近として幕臣に組み込まれた。久通は紀伊藩の家臣から幕臣・旗本となり、さらに側用人に任命されて伊勢国三重郡において1000石の知行を与えられた。享保2年(1717年)には下総国相馬郡内で1000石を加増され、享保11年(1726年)には伊勢三重郡・多芸郡、上総国長柄郡内で8000石の加増を受け、合計1万石となって大名に昇格し、こうして八田藩が立藩した。なお、八田とは員弁郡内の郷名である。その後、吉宗が大御所になるに伴い、久通は若年寄にまで栄進した。
寛政8年(1796年)には上野国新田郡・佐位郡内で3000石を加増され、八田藩は1万3000石となる。歴代藩主の内、第2代藩主の久堅は奏者番・若年寄を、第3代藩主の久周は若年寄を、第4代藩主の久慎は大番頭をと、幕府の要職を歴任している。
第5代藩主・加納久儔の時代である文政9年(1826年)に飛び領である上総国一宮に陣屋を移し、以後は一宮藩として存続した。
歴代藩主[編集]
- 加納家
譜代。1万石→1万3000石。