佐和山落城記
佐和山落城記(さわやまらくじょうき)とは、江戸時代前期に成立した石田三成の滅亡に関する手記であり、史料である。著者は山田宇吉郎(山田喜庵)。
略歴[編集]
著者の山田宇吉郎は、祖父の山田上野介、父の山田隼人が共に石田三成に仕えた家臣である。宇吉郎は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い、並びに佐和山城落城の際は数えで5歳、満で4歳であった[1]。
表題の「佐和山落城記」とは、宇吉郎が名付けたものではない。昭和10年(1935年)12月に明治大学教授の渡辺世祐により命名されたものである。著者の宇吉郎、並びに祖父も父も関ヶ原本戦には参加しておらず、佐和山の留守を務めていた。本戦で西軍が壊滅した後、東軍による佐和山城攻めが行われ、祖父は戦死、父と当時5歳の宇吉郎は祖父の遺命で城から脱出して逃げ延びている。この場面が一つのヤマであるため、このように名付けられたものと見られている[1]。
ただし、「佐和山落城記」という表題であるが、この手記には関ヶ原の2年前の豊臣秀吉の死去から、関ヶ原に至るまでの経緯(七将事件や会津征伐など)、関ヶ原本戦、三成の滅亡、大坂の陣における豊臣氏滅亡までを描いている[1]。手記の最後に「元和2年5月に之を書く」とあるため、家康が死去したわずか1か月後に書かれたことになる[2]。
山田家は隼人も大坂の陣で戦死し、また石田三成関係の史料などは江戸幕府により発禁処分にされていたため、長く家蔵として秘匿されていたが、昭和時代になって公開されたのだという。宇吉郎は万一、これが見つかった場合に備えてか、旧主に当たる三成を「主人」「治部殿」と書いてもいれば、「石田三成」「三成」と呼び捨てにしている場合もある。一方で仇敵に当たる家康に対しては「内府公」「神君」「公」などいずれも敬称を用いており(これは家康側の諸将も同じ)、書かれた時期が既に江戸幕府の安定期に当たることからそれを憚ってのことと見られる[1]。
なお、原文には句読点や濁点、半濁点はついておらず、文法上の誤りや脱漏と見られる場所もある[3]。山田家の手記であるため、宇吉郎は祖父や父を顕彰するためか、祖父や父を「智勇仁才」を兼ね備えて三成から寵愛された人物と書いている[4]。