山田隼人
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山田 隼人(やまだ はやと、天正4年(1576年) - 慶長20年5月6日(1615年6月2日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。父は上野介、子は宇吉郎。
略歴[編集]
父の上野介と共にはじめ、石田三成に仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで三成が敗れ、その居城である佐和山城も東軍に落とされたが、この落城の際に守備をしていた上野介から子の隼人と孫の宇吉郎に脱出するように命じられ、当時25歳だった隼人は宇吉郎を連れて脱出したという[1]。
大坂の陣では豊臣氏に属して参加。大坂夏の陣において木村重成隊に属して参加して重成と共に戦死した[1]。享年40。
子の宇吉郎は生き延びて医師となり、後年に『佐和山落城記』を著した[1]。
Wikipediaの石田三成の系譜では、「長女:某 - 石田家臣の山田隼人正に嫁ぐ。山田隼人正の叔母は家康の側室・茶阿局で、その縁から石田家没落後は妻(三成の娘)を連れ松平忠輝に2万5,000石にて仕えた。山田隼人正は忠輝改易後は妻の妹・辰姫の縁で津軽藩から捨扶持として150石を賜り、草山と号して江戸で余生を送った。子孫は津軽藩士となり、側用人などを務めた」などと出鱈目が紹介されている。『佐和山落城記』に「三成の婿」という記述は無く、また戦死していると記録されているため、これは全くの出鱈目としか言いようがない。