丸毛兼利
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丸毛 兼利(まるも かねとし、? - 正保4年1月28日(1647年3月4日?))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。通称は甚七郎・三郎兵衛。
略歴[編集]
父は丸毛光兼。母は美濃三人衆の1人である稲葉一鉄の娘。当初は斎藤龍興、そして織田信長、そして豊臣秀吉に仕え、文禄2年(1593年)に父が死去したため、家督と美濃国福束城2万石の所領を相続する。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで石田三成と通じて西軍に属し、同年8月16日から8月17日にかけて東軍に属した市橋長勝、徳永寿昌らと戦うも、敗れて大垣城に逃れた。
戦後は加賀国の前田氏を頼り、2000石を与えられて家臣に列した。ただ知行を前田利常から与えられたとあるため、一時的に身を隠していた可能性がある。正保4年(1647年)1月28日に死去したとされる[1]。斎藤龍興や織田信長の頃から家臣として仕えていたとなると、80歳は軽く越えていたと推測される。
ただし別の記録ではすぐに病死したとある[2]。
登場作品[編集]
- 漫画
- 『丸毛戦記 : 福束城主・丸毛兼利奮戦記』