伊予西園寺氏
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伊予西園寺氏(いよさいおんじし)は、日本の氏族で武家・公家である。
概要[編集]
伊予国南部を支配した戦国大名である。鎌倉時代中期の嘉禎2年(1236年)、公家の西園寺公経が伊予国宇和郡を領したのが起源である[1]。
南北朝時代に西園寺一族の一部が宇和郡宇和荘に逃れ、そのまま土着した。西園寺公俊の時に松葉城を築城して城主となる。西園寺実充の時に黒瀬城主となって戦国大名化し、宇和郡全域を支配する勢力に成長した。しかし、弘治2年(1556年)に大洲の伊予宇都宮氏との戦いで実充の嫡子・西園寺公高が戦死したことが没落の始まりとなる。実充は來迎寺の僧侶だった一族の西園寺公広を還俗させて跡を継がせた[1]。
公広は毛利氏と同盟して生き残りを図るが、元々それほど有能な人物ではなく、天正12年(1584年)に土佐国の長宗我部元親に攻められて降伏する。さらに天正13年(1585年)に豊臣秀吉の四国征伐で秀吉に降伏する。公広は新たに伊予の国主となった小早川隆景の庇護下に置かれたが、天正15年(1587年)に隆景が九州に新たな所領を与えられると、その後を受けて宇和の領主となった秀吉の家臣・戸田勝隆に公広は殺されて、伊予西園寺家は滅亡した[1]。