二瓶敏

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二瓶 敏(にへい さとし、1929年12月10日[1] - )は、マルクス経済学者。元・専修大学経済学部教授、専修大学社会科学研究所所員[2]

経歴[編集]

横浜市生まれ。兵庫県武庫郡御影町(現・神戸市)および台北で育つ。1944年秋に日本に引き揚げ、福島県旧制会津中学校に転校。1945年江田島海軍兵学校に入学。敗戦後に会津中学校の4年生に復帰。1947年旧制浦和高等学校入学。1949年に落第および旧制高校廃止により中退し、東京大学教養学部文科2類に入学。日本共産党に入党。学生自治会結成と同時に副委員長。1950年夏より全学連書記局。「50年問題」では国際派に所属。1952年に共産党および全学連から排除された後に学業に復帰し、1953年に文学部西洋史学科に進学。1955年に卒業し、大学院に入学。南克巳の勧めで山田盛太郎のゼミに所属。1957年の山田の退職後は宇高基輔の指導を受けた[3]

1961年東京大学大学院社会科学研究科(博士課程)理論経済学専攻修了。法政大学経営学部助手。1964年広島大学教養部講師、1965年助教授。1968年専修大学経済学部助教授、1972年教授。1986-90年経済学部長、1995-99年大学院経済学研究科長[1]。2000年定年退職[4]。1961年に土地制度史学会に入会し(1998年退会)[1]、長年に渡って理事を務めた[4]。1963年に山田盛太郎が土地制度史学会のメンバーを母体に発足させた「再生産構造研究会」に参加した[3]。1999年9月に創設されたポスト冷戦研究会の世話人[1][4]

人物[編集]

山田盛太郎[5]宇高基輔の門下生[6]北村貞夫は山田の継承者について、「山田教授の見解を忠実に継承しようとするもので、南克巳教授のほか、島崎美代子鍋島力也・二瓶敏らの諸氏が、これに属するであろう」と述べている[7]

当初は再生産論や恐慌論を研究した。後に戦後日本資本主義論を研究し[3]、三層格差構造論を展開した[4]。90年代以降は冷戦体制の形成と解体、日本資本主義の構造と危機、ME=情報革命などを研究する[4][8]。主な論文に「日本資本主義の戦後再編と危機の進行――格差=構造的過剰のメカニズムを中心として」(『土地制度史学』第41号、1968年)、「再生産論と『一層発展した恐慌の可能性』――表式における『内在的矛盾』把握の否定論によせて」(岡崎栄松大島雄一編『資本論の研究』日本評論社、1974年)、「戦後日本資本主義の構造的危機把握のために」(『社会科学年報』第10号、1976年)、「戦後日本資本主義の諸画期」(講座 今日の日本資本主義編集委員会編『講座 今日の日本資本主義 第2巻 日本資本主義の展開過程』大月書店、1981年)、「日本資本主義の現段階――ME技術革新にともなう構造転換を中心として」(三輪芳郎編『現代日本の産業構造』青木書店、1991年)、「ポスト冷戦期の日本資本主義」(大西勝明、二瓶敏編『日本の産業構造――ポスト冷戦期の展開』青木書店、1999年)などがある。

著書[編集]

  • 『講座 今日の日本資本主義 第2巻 日本資本主義の展開過程』(講座 今日の日本資本主義編集委員会編、大月書店、1981年) - 鶴田満彦と本巻の編集を担当。
  • 『日本の産業構造――ポスト冷戦期の展開』(大西勝明共編、青木書店、1999年)

出典[編集]

  1. a b c d 「二瓶敏教授 履歴・業績」『専修経済学論集』第34巻第3号(通巻75号)、2000年3月
  2. 所報PDF」『社会科学年報』第35号、専修大学社会科学研究所、2001年3月
  3. a b c 二瓶敏、矢吹満男、泉武夫「二瓶敏教授に聞く――戦後日本資本主義論争の回顧と展望PDF」『専修大学社会科学研究所月報』No.456、2001年6月
  4. a b c d e 泉武夫「献辞」『専修経済学論集』第34巻第3号(通巻75号)、2000年3月
  5. 小林賢齊保志恂南克巳鍋島力也、二瓶剛男編『山田盛太郎著作集 第1巻』岩波書店、1983年、ⅱ頁
  6. 岡崎栄松、大島雄一編『資本論の研究』日本評論社、1974年
  7. 北村貞夫「戦後再生産構造分析の基本視角」『龍谷大学経済経営論集』第18巻第3号、1978年12月
  8. 二瓶 敏 専修大学

外部リンク[編集]