狭間嘉明
狭間 嘉明(はざま よしあき、1946年3月1日[1] - 2001年12月8日)は、新左翼活動家。別名・竹海衆[1]。革労協狭間派の最高幹部[2]。
経歴・人物[編集]
1964年、九州大学に入学。1966年、日本社会主義青年同盟全国学生班協議会解放派に参加[1]。1967年12月、全国反帝学生評議会連合(反帝学評)の結成に参加[3]。1968年7月、反帝全学連の結成に参加、副委員長に就任[4]。1969年7月、反帝全学連書記長に就任(九大文学部)。1969年9月、革命的労働者協会(革労協)の結成に参加、総務委員に就任[1]。革労協は1977年2月に中原一書記長が革マル派に殺害されことを契機として、狭間学対部長を中心とする内ゲバ・軍事路線志向の学生出身活動家グループ(狭間派)と、滝口弘人議長、加藤弘美労対部長を中心とする大衆運動・労働運動重視の労働者グループ(労対派)が対立し、1981年6月に分裂した[5][6]。
1989年6月25日、革労協狭間派幹部の永井啓之が埼玉県川口市の自宅から拉致され、同日に茨城県牛久市の県道トンネル内で寝袋の中に遺体で発見された。同派内部の内ゲバによる死亡と判明し、11月に狭間は他のゲリラ事件などの容疑も合わせて逮捕された[7]。さらに革労協狭間派は1999年5月、狭間を中心とする主流派と山田茂樹を中心とする反主流派に分裂した[5]。両派は激しい内ゲバを繰り返し、2004年までに10名(両派各5名)の死者を出している[8]。
2001年12月8日、川崎市内の病院で死去。肝臓がんを患い、前年から入退院を繰り返していたという[2]。狭間が病院の特別室に入った際に架空の氏名・住所を書いた申請書を病院に提出したとして、2002年1月11日までに狭間派の当時49歳の非公然活動家が私文書偽造同行使の疑いで警視庁公安部に指名手配された[9]。
著書[編集]
- 竹海衆(狭間嘉明)獄中小論文集編集委員会編 『竹海衆(狭間嘉明)獄中小論文集』 現代社、1985年
脚注[編集]
- ↑ a b c d 同志狭間嘉明(竹海衆)を追悼する 全日本学生自治会総連合(伍代委員長)
- ↑ a b 「革労協狭間派の狭間嘉明氏死亡」『朝日新聞』2001年12月11日付夕刊15面(1社会)
- ↑ 九州大学さようなら六本松誌編集委員会編『青春群像 さようなら六本松』花書院、2009年
- ↑ 社会問題研究会編『全学連各派――学生運動事典』双葉社、1969年、92、231頁
- ↑ a b 警備研究会『わかりやすい極左・右翼・日本共産党用語集〔四訂〕』立花書房、2012年、135頁
- ↑ 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』立花書房、1985年、138頁
- ↑ 高木正幸『新左翼三十年史』土曜美術社、1988年、139頁
- ↑ 『わかりやすい極左・右翼・日本共産党用語集〔四訂〕』166頁
- ↑ 「活動家を指名手配 病院への申請書に架空の氏名・住所記載 警視庁」『朝日新聞』2002年1月12日付朝刊34面(2社会)