中上健次

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

中上 健次(なかがみ けんじ、1946年8月2日 - 1992年8月12日)は、日本作家。本名、中上 健次(なかうえ けんじ)。和歌山県新宮市生まれ。和歌山県立新宮高等学校卒業。

人物[編集]

和歌山県立新宮高等学校在学中に大江健三郎の講演を聞いている。卒業後上京し、『文藝首都』に参加した。被差別部落の出身だが、実父は裕福で、上京後の中上にも豊かな仕送りをしていた。妻はのち作家の紀和鏡(きわきょう)となる中上かすみ、娘は作家の中上紀(のり)。

1968年、群像新人文学賞の最終候補となり、柄谷行人と知り合い、終生の友となり、柄谷の示唆でフォークナーを読み、フォーサイト・サガに自身の「路地」をなぞらえることになった。三度の芥川賞候補となり有力新人と認められており、候補の一つ「十九歳の地図」はのち映画化された。75年、私小説的な「岬」で芥川賞受賞。当時、三田誠広宮本輝高橋三千綱村上龍らを、小田切進が「青の世代」と名付けたが定着しなかった。

1977年、自身の複雑な家系をフォークナーの『アブサロム、アブサロム!』に倣って書いた『枯木灘』で毎日出版文化賞を受賞。江藤淳吉本隆明川村二郎らが絶賛したが、文壇人に電話をかけてカネを貸せと言うなどの脅迫行為があり、作家の間での評判はよくなく、しかし他の文学者が怯えていたのに対し、脅迫電話を受けた江藤は叱りつけたので、中上が感服して以後江藤とは親しくなったという、ヤクザか博徒の世界のような話がある。中上は谷崎潤一郎賞がほしく、さまざまに運動をしたがとれなかった。1983年にとれなかった時に江藤は『自由と禁忌』で選考委員の吉行淳之介を「文壇の人事担当常務」と呼んで批判したが、中上は吉行とは親しかったので、江藤に「吉行さんは、違うんだ」と言ったという。

1983年にニュー・アカデミズムのブームが起こり、中上は柄谷とともに脚光を浴びたが、柄谷が浅田彰をあまりにかわいがるので嫉妬した中上は、「『リゾーム』の解釈だって間違ってるよ、あほだよ、あれは」と散々に浅田を敵視していた。83年には「岬」『枯木灘』の続きとなる大作『地の果て 至上の時』を刊行したが、「父殺し」になるはずの小説は、父の自殺という拍子抜けの結果に終り、柄谷はこれを、物語がエイズに侵されたと論評した。

都はるみのファンを自認し、「天の歌 小説・都はるみ」(1987)を書いているが、柄谷はこういう中上は嫌っていた。

蓮實重彦も江藤とともに中上を評価し、『小説から遠く離れて』で、村上春樹井上ひさしなど当時の人気作家をなで切りにして、中上を絶賛するという手法をとったが、これは江藤が『自由と禁忌』でやったことと同じだ。1982年の『千年の愉楽』は、江藤・吉本から絶賛されたが、のち福田和也は「いんちきポルノ」と言っている(宮崎哲弥との対談本)。1985年に柳町光男が撮った映画「火まつり」は中上の原案だったが、北大路欣也が最後にいきなり家族全員をライフルで射殺するという意味不明なものだったが、評価する人もいた。

1986年ころ、埴谷雄高のところへ中上から電話があり「お前を殺してやる。俺は今やくざと一緒にいる」とか言ったという。埴谷は江藤や吉本と対立関係にあった。

1988年、三島由紀夫賞が創設され、大江、江藤、宮本輝、筒井康隆、中上が選考委員になったが、蓮實は、選考委員の中に三島より優れた作家が二人いると言っていて、それは大江と中上のことだった。だが第一回選考では、中上が大江に「お前、悪人」と言い続けたという噂があるが、真偽のほどは定かではない。

1989年、昭和天皇の病気が重くなると、右翼的歌人の岡野弘彦と対談をし、「天皇が死んだら挽歌を詠む」などと言い、江藤との対談で「柄谷包囲作戦をやる」などと放言した。当時東大の学生で柄谷の自主ゼミに出ていた王寺賢太は前者に納得がいかず、喫茶店で中上を問い詰めたら、「熊はエッジで野はフィールドだ」と意味不明なことを言った。

谷崎潤一郎を敬愛するあまりか、『国文学』に書いた「物語の系譜」では谷崎を「物語のブタ」と呼んでいる。

作品には美青年が登場することが多かったが、同性愛趣味が本当にあったのかは謎である。カナダのリヴィア・モネは中上のマッチョ趣味を男根的暴力の称揚として批判したが、その後中上が早世したこともあり、この批判は棚上げにされている。その後、宇佐見りん渡邊英理など中上の支持者女性が現れているが、彼らが女性であることによってマッチョ主義が許されるという歪な構造を持っており、この問題は依然として解決されていない。

46歳で腎臓癌のため死去するが、その後礼賛派と福田和也のような批判派が対立したことがあり、今なお評価は定まっていない。