ロシア革命
ロシア革命(ろしあかくめい)はロシアで発生した社会主義革命。
日露戦争[編集]
ロシア帝国は1904年~1905年に勃発した日露戦争では極東の小国どまりだった大日本帝国に海軍の珠玉であるバルチック艦隊を壊滅させられるなどした上に国内ではレーニン・トロツキーなどの共産主義勢力などによるロシア第一革命が発生した。極東への利権は別にいいという意見が多数を占めて、戦争疲弊がたまっていたことからアメリカが仲介し、講和条約であるポーツマス条約を結んだ。日本に譲歩を行うなどして日露戦争は切り抜けた。
二月革命[編集]
この時代のロシア帝国は自分の国がスラブ民族の守護者であるという主義の「汎スラブ主義」を掲げており、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子を暗殺した青年の出身地であるセルビアが攻撃された際にはフランス・イギリスと結んだ協商を信じてドイツ帝国と同盟を結んでいたオーストリア・ハンガリー帝国を攻撃した。第一次世界大戦の始まりである。しかし、ドイツ帝国の最新鋭の兵器や暗号を使用した攻撃に旧式の武器や無線[1]を用いた攻撃を行ったロシア帝国は防御が総崩れとなり戦争疲弊が蓄積、国民もウクライナなどの穀倉地帯を失ったことにより食糧が不足。食糧が不足したことで国民の厭戦感情もたまっていった。国民の中では戦争の早期離脱を求める声が高まっていった。そして1917年2月[2]メンシェヴィキや左派エスエルなどの社会主義勢力や軍人などの右派勢力が協力して皇帝を退位させた。ロシア帝国は滅亡した。
臨時政府への支持低下、共産主義勢力の伸長[編集]
労働者や兵士などの大多数の国民は戦争からの早期離脱を求めていたが、大地主や富裕層などの影響が強かった臨時政府は第一次世界大戦の戦争続行を訴えたため、国民からの支持が低下した。また、臨時政府は軍人などの右派とアナキストや左派エスエルなどの左派が皇帝の退位という共通の目的を持っていただけだったため、意見がまとまらず派閥争いや政治的な争いがたびたび起こった。臨時政府トップに就任したアレクサンドル・ケレンスキーはドイツ帝国軍に対し「ケレンスキー攻勢」を仕掛けるもとん挫・敗北し、国民の支持はさらに低下した。同時期にレーニンがロシアの敵国であるドイツを通り、[3]ロシアに入国。国民からの支持を広げていた。
十月革命[編集]
同年の10月には[4]レフ・トロツキー、ウラジーミル・レーニンなどのボリシェヴィキにより臨時政府が転覆させられ、すべての権力がソビエトに集結させられた。そしてこれでボリシェヴィキの赤軍と反ボリシェヴィキ[5]の白軍が内戦を繰り返すことになる。この内戦は1922年にまで続くことになる。これを「ロシア内戦」という。余談であるが、ケレンスキーには女装癖があったらしく、十月革命時には女性に変装してロシアを脱出し、アメリカに亡命した後1970年まで生き永らえたそうである。
影響[編集]
世界初の社会主義革命ということで世界中に大きな影響を与えた。インドの反英暴動、トルコ革命、アイルランド革命、エジプト革命がある。